図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
俺様教師の独白
 終わった、と思った。 

 編集から電話がかかってきたのは、疲れ切った亜沙子が眠ってすぐの頃だった。睡眠時間だけで言えば絶対俺のほうが足りてない。にもかかわらず、興奮と昂揚で全然眠くなかった。裸の亜沙子はきれいで見飽きることがなくて、結局ずっと起きていた。

 いつの間に、こんなに好きになってたんだろう。

 柔らかな頬を指先で撫でながら、今までのことを思い返す。

 思えば最初から、面白い奴が来たな、と思ってた。初日の挨拶で本嫌いなんだよねと言った俺を見る眼差しは強く尖って、胡散くさいものを見るようだった。その顔がなんだかおもしろくて、職員室を出て行く後ろ姿をじっと目で追っていた。
 
 眠るために図書室に行くとあからさまに嫌な顔をして、司書らしい真面目さを前面に出してくる。そのくせ、時間になると必ず起こしてくれる。そんなことも面白くて、いつしか寝ることより亜沙子と会うことの方が目的になっていた。彼女からすればいい迷惑だったろうけど。

 亜沙子に恋愛経験がないと聞いて、ますます面白く感じた。面白いというか、今思えば愉快だったんだ。彼女に誰も触れたことがないことが。
 
 おもしろい、もっと知りたい。

 珍しい動物を前にして、その生態を探ろうとワクワクする子どもみたいに、亜沙子に近づいた。のと、多少の意地みたいなものもあった。官能小説なんて男性本位なしょうもないもの、と言われたあのとき、自分でも意外だったけどちょっと腹が立った。書いたこともないのに簡単に言うなよって、そんなふうに思った。

 自分が思ってる以上に、小説を書くっていう作業と、それなりに面突き合わせていたらしい。

 そう認められるようになったのも、亜沙子のおかげだ。彼女が、俺の中にわだかまってた色んなしがらみを解いてくれた。

 亜沙子は沢山のことを俺に教えてくれる。優しくしたくなる気もちとか、素直になろうとする心とか。

 あいつが純粋にきれいに生きてきたことが、俺はうれしい。寝る前に絵本を読んでると言って、亜沙子は子どもたちみたいにあどけない顔で笑った。
 あの笑顔を、守ってやりたいと思う。そう思ったとき、気がついた。

 興味じゃない、好奇心でもない。
 俺は亜沙子が好きなんだ。

 ぼうっと亜沙子を見ていると、リビングの方からスマホの着信音が聞こえた。

 俺が教師をやってることを知ってる編集は、真っ昼間に電話してくることはほとんどない。だけどその代わり、今くらいの時間にガンガンかけてくる。特に今は締切間近だから、進行具合のチェックに余念がない。

『お疲れさまです、どうですか』
 リビングに向かってスマホを取ると、聞き慣れた声が短く尋ねた。

「あーはい。大方終わりました。たぶん明日の夜には送れると思います」
 この時の俺は、このあと原稿どころじゃなくなるなんて想像もつかない。ダイニングチェアに腰掛けて片足を立てる。視線はついドアの方に向かい、その先に眠る亜沙子を思い浮かべる。

 さっきは、すげぇかわいかった。

 口の端がニヤついてしまって、編集の言葉が頭に入ってこない。これじゃいかんと思って、反対を向いて座りなおす。
『それじゃ次回作なんですけど、前言ってた、処女の子ってどうなりました?』
「は?」
 おもわず低い声が出た。は? というより、あ? に近かった声に相手がビビっているのが伝わってきた。
『いや、小林さん前言ってたじゃないですか。面白い子がいるって』
 あー、と口のなかで答える。そうか、話してたか、とぼんやり思い出す。職場にこんな人いるんですよ、小説のネタになりそうだって。
『小林さん?』
 編集の声に意識を戻した。スマホを握ってない方の手の指先同士を擦り合わせる。

 ありえないな。
 今思うのはこの一言に尽きる。亜沙子をモデルにして官能小説書いて、それが色んな男に読まれるだなんて、ありえない。

『あの後僕も思ったんですけどね、面白そうですよね大人処女。成人女性ならではの初々しさと色気っていうんですか。ちょっと次の編集会議で出したいなーと』
 それ以上聞いてられず、考えるより先に口を開く。
「いや、もう彼女処女じゃないし」
『え?』
 けっこう大きな声。一瞬スマホを耳から浮かせる。

『え、なにそれどういうことですか。なんで小林さんそれ知ってるんですか』
 食いつかれて、自分が言い出したことなのにうんざりする。あぁしくった、と思いながらも今更遅い。

『もしかして小林さん、食っちゃったんですかその子』
 下品な言い方に眉が寄った。なんだよ食っちゃったって、俺はそんなことしてない。俺が、俺たちがしたのは。
「あー、はい。しましたよ、セックス」
 食っちゃった、という言葉を訂正するようにセックスと言い直した。あれは一時の遊びとか性欲処理とかじゃない。心のある繋がりだ。

 自分が官能小説なんて書いてるからか。愛情のあるセックスは、尊いと思う。
 だからだれかに共有なんてしない。あの亜沙子は、ずっと俺だけが知っていればいい。
 諦めさせたい。その一心で言っていた。

「やーでもなんか、思ってたのと違うっつうか」
 成人女性ならではの初々しさと色気、そんなもの無かった、みたいに言ってやる。実際はあった。めちゃめちゃあった。だけどそんなの、想像さえさせたくない。

「あんまネタになるようなことはなかったですねぇ。ご期待に添えなくてすいません」
 ハハッと笑ってやる。ひっでぇ、と編集が電話の向こうで笑っている。酷い男だと思われたっていい。そんなことより、守りたいものがあるんだ。

 相手が笑って俺も笑って、このネタはこれで流れることが決まった。心の中で安堵しながら話を変える。
「ちょっと、なのではい、処女ネタはパスで。で、今度はもっと――」

 そのとき振り返ったのは、本当に無意識だった。笑い声うるさいかな、寝てるの起こしたらかわいそうだなって、もしかしたら頭の片隅にあったかもしれないけど。

 扉の前に立ってる亜沙子を見て、思考がごっそり抜け落ちた。馬鹿みたいな顔してたと思う。咄嗟に名前を呼んだら、すげぇ小さな声が、最低って言った。
 聞かれた。どこから? どこまで? 頭が真っ白になって、走り去る彼女を止めることができなかった。
 
 
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