309.5号室の海

蒼井 涼(あおい りょう)という人物が隣の角部屋、310号室に引っ越してきたのは、ひと月ほど前のことだった。

美味しいと有名なお店のお菓子の箱を持って挨拶に来た蒼井さんは、よろしくお願いします、と丁寧に頭を下げた。こちらこそ、と慌てて返し顔を上げると、彼はまっすぐに私の目を見ていた。

まず最初に、一目見て思った。
蒼井さんは、整った顔をしている。
かっこいいとか、イケメンとかっていう言葉よりも、綺麗な顔と言ったほうがしっくりくる気がする。どこか儚げで、少し寂しそうな。
だけど、お菓子の箱を差し出してくる手は大きくて、確かに男の人のもので。

そんな人にじっと目を見つめられて、胸が高鳴った。
高校生の頃、廊下で友達と喋りながら、教室の中の好きな男の子の姿を目で追っていたときみたいな、淡くて掴みどころのない気持ちを思い出したのだ。


その日を境に、私の平穏な日々は姿を消した。

たまたまマンションの下で会ったとき、ドアを開けるタイミングが一緒だったとき、いつもいつもそのたびに、心臓はドキドキ言い出してしまう。

快適だなんてとんでもない。
ここでの暮らしは、緊張の連続になってしまった。

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