仕様もない話
仕様もない話




人生にマニュアルがあるとしたら、僕はそのお手本みたいな人間だったと思う。人間というのは不思議な生き物で、個性だなんだと謳うわりに、マニュアル通りに生きている奴が結局は得をするように出来ている。

親の言いつけ通りに良い学校へ行き、教師の言いつけ通りにさらに良い学校へ進学した。誰かに何かを頼まれれば迷うことなくイエスと答えたし、請け負った仕事は最後まで完璧にこなしてみせた。僕は人より少しばかり器用だったから、そうやって生きていることに苦はなかった。

根っから真面目なふりをしながら、自分よりも強い相手には決して逆らわず、楽しくもないのにいつもにこにこ笑ってみせた。そうすると、親も教師も喜んだ。誰にでも分け隔てなく接し、困っている人がいれば我先に声をかけ、手を差し伸べた。そうしていると、僕の周りはいつも人で溢れるようになった。陰で僕を悪くいうやつもいたけれど、そんなやつでさえ目が合えばにっこり微笑んできた。好きか嫌いか、腹の底で何を思っているかなんてことは、生きていく上では全く重要でないということを、きっと彼らも知っていたんだろう。

本当のことは心臓の裏側に隠して、表向きな言葉だけを並べ立てた。誰からも慕われ、羨まれて、僕はそんな自分のことが好きだった。

けれど時々、ふと考えた。自分は一体何なのだろう、こんなことに何の意味があるのだろうと、何でもない瞬間に思った。でも、そんなことを考えることさえ無駄なのだとすぐに目を逸らしてしまった。思い返せば、そんな瞬間が山のようにあった気がする。

僕は自分のことが好きだった。そして、自分のことを好きなふりをする自分に吐き気がしていた。

人生にマニュアルがあったとしたら、僕はそのお手本みたいな人間だったと思う。けれど実際にそんなものが存在しないということも、僕はわかっていた。それに気づきながら、認めてしまうことをひどく恐れていた。ありもしないマニュアルに従って、毎日を当たり障りなく過ごしていた。

それが正しいことだと、賢い生き方なんだと信じていた。

けれど、そんな僕にもただ一人だけ苦手な人間がいた。そいつは同じクラスの女子で、長く伸びた黒髪をいつも自慢げになびかせているのが印象的だった。彼女はとても頭が良く、いつも学年で1、2を争う高成績でいたけれど、それ以外ではあまりにも問題のあるやつだった。

教師に何か小言を言われれば、間髪入れずに反論した。それがまた正論なものだから、教師たちはみんな彼女のことを好いていないようだった。思ったことをすぐに口に出してしまうせいで、クラスの中でも浮いていて、クラス替えからひと月もした頃には彼女に声をかけるやつは一人もいなくなっていた。

僕は彼女のことを馬鹿にしていた。なんて不器用なやつだろう。もっと上手く生きられないのか、要領の悪いやつだといつも心の中で罵っていた。きっとクラスの連中もみんなそう思っていたのだろう。彼女の陰口を叩くやつも少なくはなかった。

けれど彼女は、いくら教師に嫌な顔をされようと、クラスメイトに避けられようと、いつも素知らぬ素振りで、ただ凛と真っ直ぐ前を向いていた。強がりなどではなく、本当に何も気にしていないような顔をして。

僕は彼女のことが嫌いだった。

彼女を見ていると、腹の底がざわざわと蠢くような、不思議な感覚がして居心地が悪かった。僕が今まで必死に取り繕ってきたものを、あの真っ直ぐな目がすべて否定しているような気がして腹が立った。そしてそれと同時に、その目がとても恐ろしかった。

だからあの日、本当は気づかないふりをすればよかったのだ。僕はわかっていた。彼女に近づいてはいけない。今まで信じてきたものを疑いたくないのなら、僕が僕のままでいたいのならば、彼女に関わってはいけない。僕はわかっていた。わかっていたのに、どうしてだろう。あの日偶然、ひとりきりで涙を流す彼女を見て、どうして僕は、見て見ぬふりが出来なかったのだろう。

どうして、その頬に伝ったしずくを、この指で、拭ってしまったのだろう。
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