スノー アンド アプリコット
婚約者

ドアの取っ手をひねる前に、あたしは一度だけ深く深呼吸をした。
ユキが臨戦態勢で背中を見ているのを感じる。
あまりの怒りでクラクラするほどなのに、それが可笑しくて、あたしは口元に笑みを浮かべてしまった。

たった今、男の顔をしてあたしにキスしようとしてきたくせに。
やっぱりよく躾けられている下僕だわ。
ーーあたしが、躾けたんだったか。

だけど、今回ばかりはユキの手は借りない。
自分で罵倒してやらなきゃ、気が済まないからだ。

だから、ドアを開けて、すぐに閉めた。

大倉が反射的に顔を向けてきた。

「杏奈ちゃん…?」

隣の部屋から出てきたんだから、驚いて当然だ。
あたしの部屋のドアに拳を押しつけたまま、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、呟いた。

中肉中背、真面目が取り柄と顔に書いてある、サラリーマン。不細工でもなく、禿げてもなく、太ってもいない。
極上物件のはずだった。

「部屋を教えたことはなかったと思うけど。」

ドアに背を預けて、腕を組み、あたしは言った。
もう、守りたくなるような、馬鹿みたいな女を演じる必要もない。

「どうやってここを調べたの?」

ーー純粋な善意、というものが。
どれだけあたしの敵であるのか、あたしはわかっていなかった。
大倉は誠実で、いい男だった。
だからあたしはプロポーズされた時、喜んで受け入れた。

だけどこの男は善意に溢れ過ぎていた。
もう用は無い。

「それは…」
「また興信所?」

言い淀む声に、あたしは思い切り軽蔑を込めて言ってやった。

「そんなにあたしの身元が信用できなかった?」
「そうじゃない! そうじゃないんだ、ただーー…」
「ただ、何だか知らないけど、あたしはもうあんたの話なんか聞く気ないわ。」
「どうして!!」

大倉が悲劇的に叫んだ。
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