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「桜子さん!」

愛車の赤い自転車にまたがり、まさにペダルを漕ごうとしたとき、いつもの明るい声が聞こえてきた。

「なによ、でっかい声で呼ばないでよ。本当に恥ずかしい」

振り向いた私は、迷惑そうな顔ができているのだろうか。

「桜子さん、今帰りですか?」

話すようになって、一ヶ月が経った今も晴は敬語をやめない。

なんだか、自分がえらそうにしているみたいだからやめてよ、と何度言っても、「いやいや、先輩ですから」などと言ってやめない。

「先輩だから」というのは体のいい言い訳で、相手がたとえ同級生でも敬語で話しているのを私は知っている。

晴はまだ一回生だから、下級生というものはいないけれど、きっと下級生が相手でもきっと敬語で話すのだろう。

晴はつまりそういう人なのだ。

ずけずけと距離をつめてくるくせに、礼儀正しくて誰にでも丁寧。

「見てわからない?」

はぁ、とわざとらしくため息をはいてから悪態をついた私を見て、晴はくすくすと笑った。

「わかってましたよ」

「じゃあいちいち聞かないでよ」

「はい、すみません」

全く気にしてなどいないことがわかる口ぶりで謝ったあと、晴は当たり前のように私の隣に並んで歩き出した。

乗るタイミングを逃した私は『しぶしぶ』自転車を押して歩く。

リュックの肩紐に両手をかけて、肩紐を浮かすようにする仕草は、晴の癖なのだと思う。

きっと、リュックがかなり重いのだろう。
今だって、見た感じパンパンだし。

今日もあの中に、採集した昆虫がたくさん入っているのかと思うと、また背中を寒気が走った。

門にいる警備員さんに、丁寧にお辞儀をして「さようなら」とまるで小学生みたいな挨拶をしたあとで、晴ははたと足を止めた。

「桜子さんのおうちはどっちですか?」

私が無言でマンションの方向を指差すと、晴は眉を八の字に下げて「俺は、こっち……」と反対側を指差して残念そうな声を出す。

なにそのかわいい表情は。

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