bug!
彼は私の右前方に立っていた。

155センチの私が首をかなり傾けないと顔を見上げられないほどの長身は適度に引き締まっていて、その上に乗った顔は憎らしいほど小さい。

暖かな春の風に揺れる、柔らかそうな茶色の髪は、寝癖風にちょこんとはねていて、それがなんとも母性本能をくすぐられる感じだ。

涼しげな目もと、すっと通った鼻筋に、口角のきゅっと上がった薄い唇。

あっさりとした白いシャツに紺色のデニム、それに登山にでもいくような大きなリュックサックを背負っていた。

え……?

私のこと、だろうか。

他の誰かに対して言ったのかもしれないと、周りを見回してみても、彼の視線はどう見ても私に向けられていて。

戸惑っている私に彼はゆっくりと近づいてきて、ふわりと微笑んだあと、すっと優雅な手付きで私の左肩に手を伸ばす。

肩に優しく触れられて、思わずぴくりと身を固くすると、彼は少し首を傾けて、もう一度ふわっと微笑むと、自分の手のひらの中のものを「ほら」と私に見せた。

「……ひっ」

目の前に差し出された彼の大きな左手のひらの中には、私の大嫌いな昆虫ーーなんという名前かなんて知らないし興味もない。ただ、黒っぽい虫ーーが載せられていた。

あまりの恐怖と嫌悪感で声も出せない私に、彼はにこにこと話しかける。

「肩に載っていましたよ」

彼はその虫を右手の人差し指でなんだかとてもいとおしそうにそっと撫でると、

「コアオハナムグリって言うんですよ。かわいいですよね。ハルジオンとかの花に潜るからハナムグリ。あなたのこと、花と間違えたのかな。かわいいなぁ」

と、微笑んだ。

花と間違えられても、全然嬉しくないんですけど。
というか、肩に止まってた!?
いつから!?
あぁ、気持ちが悪い。
吐き気がする。

彼の手のひらの虫が小さく身震いしたかと思ったら、ふいにぱっと飛び立った。

「ひぃっ」

その瞬間、私は駆け出した。
飛ぶ虫なんて恐怖でしかない。
虫からもあの変な男の人からも一刻も早く逃げなければ。
肩についていたなんて、出来れば服も着替えたい。

「あれ、どうかしましたか!?」

後ろから男の人の間の抜けた声がしたけど、私は振り向かなかった。

虫を取ってくれたお礼とかどうでもいい。
とにかく、早く建物内へ。
早く虫のいない安全な場所に避難するために。

途中で自分の肩に虫がのっていたことを想像してしまうと涙が出てきて、きっとすごい顔になっていたと思うけど、ピンヒールをカッカッカッと鳴らし、なりふり構わず走った。


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