偽りの姫は安らかな眠りを所望する
【番外編】

マロウブルーに微睡んで

その夜、やっぱりダグラスさんは帰ってこなかった。
あたしはいつもの夜と同じように、就寝前の香茶を淹れる。

「お茶、どうぞ」

羽根ペンを持つフィルの邪魔にならない場所にカップを置き、あたしはその向かい側に座った。

「ありがとう」

彼は手を止めていったん帳面から顔を上げる。ほわりと嬉しそうに笑ってから、顎に手を添えてちょっと難しい顔をした。

「ずいぶんと大雑把な帳簿だな」

「……今まで、覚え書き程度にしかつけていなかったから」

あたしが気まずげに首を竦めると、フィルは呆れたように天井を仰ぎ見る。
だって、ご近所の人たちを相手にしている分には、それで十分だったのだもの。口を尖らしてみせた。

「そんなことじゃ、これから先……」

「手、ずいぶん荒れちゃってるわよね」

お説教が始まりそうな気配を、強引に言葉を被せて蹴散らかす。
カップを持つ手つきは相変わらず優雅で見惚れてしまうけれど、肌からは以前の滑らかさが薄れていて、再会してからずっとそれが気になっていたのだ。

「そうか?」

興味なさげにフィルは自分の手をチラリと見るだけ。せっかくの長くて細い指が素敵な白い手なのに。

「ねえ。せっかくだし、これからしてみない?」

ぐっ! と、フィルがなぜが香茶にむせる。涙目で咳き込む姿があまりに苦しそうで、後ろに回って背中をさすってあげた。

「大丈夫?」

「……な、なにをするって!?」

嗄れ声で訊きながら首を捻り、肩に置いたあたしの手首を掴む。心配で覗き込むあたしを見上げたフィルの瞳は潤んでいて、やけに顔が朱い。

「だから、久しぶりに手の施術をしてあげたいなって。……イヤ?」

すっかり不眠は解消されたみたいだけど、この手の荒れ具合はなんとなく、あたしがイヤだ。

「あ、なんだ。うん。……じゃあ、お願いしようか」

フィルは紫色の瞳をキョロキョロと彷徨わせた後、おもむろに口角を上げた。ガラリと変わった雰囲気に、あたしの胸がトクンと大きな音を立てる。

動悸を隠し、施術に来たお客さんに座ってもらうちょっとだけ座り心地の好い椅子へ彼を誘おうとすると、逆の方向へ手を引かれた。

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