樫の木の恋(上)
「斉藤龍興を捕らえました!」
どこからかそんな声が聞こえた。
意気消沈という言葉がよく似合うその表情が、自分を見て般若のように顔をしかめた。
「半兵衛!貴様、父上の恩を仇で返し、斉藤家を裏切りおって!」
絶叫に近かった。周りの織田家の人達の顔が自分に向けられる。分かってはいたが、斎藤家を裏切った者なのだと皆実感したのだろう。
自分も義龍殿の顔が思い浮かび後ろめたくなってくる。しかしそれも束の間だった。
「うるさい!たわけが。酒食に溺れ遊んでばかりだった貴様を嗜めるために半兵衛はどれだけ苦労したのか分からんのか。裏切ったのは貴様の方だろう。恥を知れ。」
そう木下殿が淡々と口にした。
その龍興殿に向ける瞳はどこまでも冷たかったが、しかし自分に向けられる思いは温かく嬉しかった。
「は、半兵衛は織田家も裏切るぞ!わしらを裏切ったような奴なのだから!」
「ふん!半兵衛は斎藤家を裏切ってなどおらぬ!お主が半兵衛を殺すために殺し屋を雇って、裏切ったのではないか。阿呆め。」
木下殿は龍興殿が反論出来ないくらいに強く冷たく言い放った。その言葉によって織田家の人々が自分に向けていた裏切り者という目が無くなり、龍興殿に冷たい目が向けられるようになった。
たったそれだけの言葉で木下殿は自分の印象でさえも変えてくれたのだ。
「大殿どういたしますか?」
柴田殿が大殿に問いかける。大殿は腕を組み少し悩んでいるようだった。
「困ったのぉ。このようなクズを切ったら刀が錆びてしまうわい。あいにく錆びてもいい刀の持ち合せがないしのぉ。」
「はっはっはっ。別にこのような者放っておいてもいいのでは?どうせ何も出来ますまい。」
「そうじゃの。どうせ何も出来ずのたれ死ぬのが目に見えておるし放っておけ。」
「はっ!」
悩んでいたというより馬鹿にしていたというほうが正しかったようだ。
散々文句を言っていたが織田家の者は誰も相手にせず、龍興殿は放たれた。