遠くの光にふれるまで




 そうしているうちに信号が青になり、家路を急ぐひとたちが一斉に歩き出す。
 それに流されるようにわたしも歩き出して、男性も同じように歩き出す。

 わたしのゆっくりとした足取りがじれったいのか、サラリーマン風の男性が背中にぶつかりながら追い抜いて行ったけれど、そんなこと気にならないほど、わたしは彼しか見えていなかった。

 男性の身体を、何人ものひとが通り抜けて行く。彼の身体はやはり実体がないらしい。わたしの目は、色を失っていた。いつもは鮮やかな街並みが、今はもう灰色。その世界の中で、彼だけが色を持つ。彼だけが原色。


 視線を合わせたまま、ようやく横断歩道の真ん中で対面し、彼を見上げる。

 切れ長の綺麗な目に、柔らかそうなくしゃっとした髪をしていた。

 彼は小さく首を傾げ、そしてこちらに右腕を伸ばす。

 頬に、温かいそれが触れた。
 触れる。
 感じる。

 ちゃんと触れることを確認すると、今度は左腕を伸ばし、わたしの肩を引いた。

 身を任せるように抱き寄せられ、そして、彼と、キスをした。

 一瞬のキスだった。

 すぐに唇が離れ、視線が離れた。
 信号が赤に変わることを告げる音が流れ、自然にお互い信号を見上げたせいだ。

 信号待ちの車にクラクションを鳴らされないうちに、彼に腕を引かれて信号を渡った。

 渡り切っても彼の足は止まらず、わたしもそれに従って歩き続けた。

 ようやく立ち止まったのは、喧騒から少し離れた路地裏。

 彼は振り返らないまま天を仰いで息を吐く。

「あんた、俺が見えるのか?」

 彼の第一声がそれだった。少し低めの声だった。

「見えるもなにも、頬に触れて抱き寄せてキスをして、腕を引いてここまで来たじゃないですか」

「だよなあ、悪い、馬鹿なこと聞いた」

 彼はふっと笑って振り返る。再び視線が絡み合い、胸が高鳴った。

「丙、宗志」

 ひのえ、そうし。彼の名前らしい。わたしもすぐに「藤宮若菜です」と名乗ると、彼は「若菜、か」と呟き、一歩近寄って、また頬を触る。

 くすぐったい。
 幽霊なのに触れて、こんなに温かいなんて。
 幽霊と話したら友だちがいなくなる、それが幼い頃からのわたしだけの呪文だったのに。

 なぜこんなにも彼に惹かれるのだろう。


「悪い。人間に触れるなんて思ってもみなかったから……急にあんなことしちまって」

「わたしだって、幽霊に触れるなんて知りませんでした」

「キス、していい?」

「聞かなくていいですよ」

 そんなやり取りも惜しむよう、彼はわたしの身体を引き寄せ、そして二度目のキスをした。

 今度はお互いを確かめるよう、舌を絡め、唾液の交換をし、吐息を吐く、長いキスだった。

 舌を絡めるたび、身体の芯が煮立っていくのが分かった。
 幽霊とキスをしてこんな気持ちになるなんて。やっぱりわたしは異様で異常なのかもしれない。

 もっと触れたい。
 もっと一緒にいたい。
 ああ、しまったな。
 幽霊相手に恋い焦がれても、決して結ばれるわけじゃないのに。

 だって肉体がここにあるわけでもない、いつかは天国だか地獄だか……そういうものがあるのかは知らないけれど、いつかはいなくなってしまうのだから。

 唇が離れ、酸素を求めて浅く短い呼吸をしながら見つめ合う。

 ああ、本当にしまった。離れたくない。

「若菜……抱きてぇんだが、いや、抱くぞ」

 幽霊だろうがなんだろうが。今のわたしには断る理由はなかった。
 本能に従った、と言うほうが正しいか。
 とにかくわたしは、頷いた。




< 2 / 114 >

この作品をシェア

pagetop