海老蟹の夏休み
「私、ザリガニになりたいって思ったんです」
「うん?」
「山のなかの、静かな池の片隅で、じっとして暮らしたい……って」
「そうか」

 追い詰められた末の、へんてこな願望だ。
 冗談ぽく言ったけれど、沢木はまじめに受け止めてくれた。そして、ザリガニの専門家らしい見解も述べる。
「だが、なかなか難しいぞ。彼らはぼけっと暮らしてるわけじゃないからな。餌と縄張りを確保する必要がある。天敵は存在するし、飢えれば共食いもする。戦わずして生き延びるなんて不可能であり、毎日がサバイバルだ」
「……」
「大変だ、どんな生き物も」
「はい」

(なんにも考えてなかったなあ、私)

 朋絵は恥ずかしくなる。
 だけど今は、いろんなことがクリアに見える。
 人間でいるのも悪くないと、思えることが幸せだった。

「だが、いいかもしれないな」
「えっ?」
(ザリガニになるって……ことが?)
 沢木は笑い、それから少し赤くなる。じっと見つめられて照れたのか、あとは何も言わなかった。 


 ヘッドライトであたりを照らし、バスが広場に入ってきた。
「おっ、来たぞ」
 沢木の合図で、朋絵は立ち上がった。
「よかったな、バスが来る前に話ができて」
 微笑む沢木に、朋絵も釣られて笑みを返すが、少し寂しい笑顔になった。
 この出会い、彼とのご縁も、もうすぐお終いなのだ。

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