あしたのうた


「……あの、」

「中、入りますか」

「……いいんですか?」


だってここ、立ち入り禁止じゃないですか、と重ねて問いかけてくる少女に、構わないよと腕を引く。手を出して廊下にある電気のスイッチを切ると、少女を部室に誘い込んでまた鍵を閉めた。


少しだけ表情を硬くした少女に、嗚呼ごめん、と零す。傍から見たら名前も知らないただの男女で、その二人が密室にいる意味まで考えが回らなかった。


ただただ、既視感。


初めて会うはずの、彼女相手に。会ったことなどないはずの、少女相手に。


「俺、妹尾渉」

「え、あ、……私、つむぎ、です。村崎、紬」

「────あかねさす、」


唇から零れ落ちた言葉を途中で止める。ぱちぱちと目を瞬かせる彼女が、そっと俺と視線を合わせた。


「それなら、貴方はむらさきの、ですか」


返された言の葉に驚いて目を見張る。すぐ近くにある階段を上ってくる足音にはっとして、彼女にしゃがむように指示をした。机を挟んで、斜め向かいになるように床に座る。一応気を回した距離に少女の表情が少しだけ和らいだのを見て、悪いことをしたな、と今更ながらに考えた。


「……知ってるんですか、その歌」


暫くの沈黙の後でそう問いかけると、彼女──紬が緩く頷いた。


────あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖降る


────紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも


額田王がかつての恋人である大海人皇子に詠ったとされる、あかねさす、から始まる和歌。そしてそれに対する、大海人皇子の返歌。


当時額田王は既に大海人皇子の兄にあたる中大兄皇子と結婚していたのに、かつての夫である大海人皇子に蒲生野で詠んだのが、このうた。その真意は分からないがこの二つの和歌は未だにセットで国語の資料集にも載っている、それなりに有名なもの。


分からない、というか。諸説はあるけれども。


知りたくない、という方が、適切なのかもしれないと思う。


「授業でも習ったし、……和歌、好きなので」

「じゃあ、百人一首とか?」

「はい、でも、それより……」


万葉集、そう言った声が重なった。


ぱっと俺の方を見た紬が、驚いたような表情をしている。軽く笑って持っていた文庫本を差し出すと、躊躇ったように手を伸ばさないでいる彼女に押し付けた。


「────これ」


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