あしたのうた


何故私たちが睡眠をとっている間に見る夢と、将来という意味での夢が同じ漢字を持つのか。どちらも手の届かないものだからなのか、有り得ないと一笑に付すことのできるものだからだろうか。


後者の夢だって叶うことがあるだろう、という言い分に対しては、それは夢ではなく目標だという答えが向かうかもしれない。私の中にも、夢は叶わないものだという言葉がある。叶えたいのならそれは夢ではなくて目標なのだと、言っていたのは誰だろう。


その夢が叶った世界が、また現実としてあるかもしれない。私たちの生きている現実では無理でも、パラレルワールド、並行世界のどこかで、成功させた世界が存在するかもしれない。


私たちの生きる現実が本物でないからと言って、私は命を投げ出そうとしているわけではないのだ。


別にこの世界が本物でなくとも、私の存在が、家族や友人の存在が本当でなくとも、今この世界が嫌いなわけではなくて、寧ろこの世界が現実が、私は好きだ。


たくさんのかもしれないがある。たくさんの分からないことがある。


それってとっても楽しいことで、この先生きるには多いくらい、きっとたくさんのことがある。


その全てを私が経験できるわけではないけれど、一つくらいは知ることができたらいいなあ、と思っているし、一つくらいは知ってやる、とも思っている。


夢が叶うことはなくても、夢見ることは決して悪いことではないでしょう?


たくさん夢を見ることが、未来へ繋がると思っている。いま私たちが夢見たことを、他の現実の人々が、そして私たちの現実に生きる未来の人々が、叶える日がきっと来る。きっとある。


私たちがそれを見届けることができなかったとしても、それはそれでいいじゃないか。


夢見たことが、決して彼らを幸せにするとは限らない。そんな未来があったっていい。幸せにしてくれるなら何よりかもしれないが、失敗してこその成功。要は日常と同じなのだ。


失敗があるからこそ、成長がある。失敗なしには成長することは叶わない、と。


それを私は知っている。十分すぎるほどに、知っている。


少年よ大志を抱け、とは札幌農学校のクラーク博士が日本を去る際に教え子に贈った言葉であるが、その言葉が示す通り、たくさんの志を抱えて歩け。それは身になる保証はないけれど、決して無駄にはならない。


そうやってひとは生きてきた。ここまで歩いてきた。


何度も夢を見ながら。失敗と失敗と失敗と、そしてほんの一握りの成功を重ねながら。


それを私は知っている。痛い程に、知っている。


だから私も、また夢を見る。


それが叶わないと知っていても。叶う可能性が酷く低いことを知っていても。だから夢と形容しているのだと、自分自身で分かっていながらも。


だって、私は。────わたし、は。


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