SNOW

戸惑い

自分らしく生きていきたかった。
自分らしい生き方が分からなかった。


あれから数日がたった。依子はその間、あの眼鏡の青年の事が気がかりで仕様がなかった。
自分で自分が分からない。部屋に籠って学校の課題や読書をしていても、あの青年の事が気になって、仕様がなかった。

朝ご飯を適当に済まし、昨日の夕方に駅前の本屋で新しく買った小説を読もうとした時、玄関のベルが鳴った。
「はーい」
ガチャリと開けたそこには、このアパートの大家である叔母がニコニコと立っていた。
「叔母さん。お久しぶりです。」
「依子ちゃん!元気そうね。あなた細いからちゃんと食べてるか心配だったけれど、取り越し苦労のようだったわ。」
「はい、ちゃんと元気です。」
「ちょっとお、日本語可笑しいわよ?元気なのはいいけど、ふふ、相変わらず面白い子ね。」
叔母さんこそ相変わらずだ、と思い、ふと最近誰とも会話をしていなかった事な、と少し切ない気持ちが湧いた。
あの人に教えてもらった定食屋のおばあさんとは少し話すけれど、気の知れた間柄の人物と何気のない会話は、本当に久しぶりだった。
「叔母さんが訪ねてくるなんて珍しいですね。どうかされました?」
「うん、ちょっと報告をね。お隣さん、岩田さんが先月引っ越しちゃったでしょう?それで空き部屋になっていたけれど、新しく住む人が決まったのよ。今日引っ越し業者が来るから騒がしくなっちゃうんだけど…今日家にいる?」
「はい、今日も家で課題やってます。けど大丈夫ですよ、気にしないで下さい。」
「そう?良かったわあ。それでね、その新しい隣人さんも業者さんの手伝いでもう来ちゃうから、挨拶くると思うんだけど…」
「そうなんですね。どんな人なんですか?一人暮らし?」
「それがねー、面白い子なのよ!」
叔母さんは少女のように瞳をらんらんと輝かせて続けた。
「第一印象は地味な子だわ、と思ったけどなんと小説家志望らしくて。あ、ちなみに一人暮らし。で、男の子。26歳って言ってたわね。」
「…叔母さん、そんな個人情報撒き散らせていいんですか?」
やっぱり、相変わらずのお喋りは変わっていなかった。明朗快活でおおらかな人だから、依子はこの叔母さんが好きなのだけれど。
「あはは、ついつい。でも感じのいい子よ。真面目そうで。依子ちゃんとお似合いなんじゃないかしら。」
「!」
依子は少し動揺した。
「…もう。やめてください、って。私今そういう気無いんです。」
そういう気、と口走り、頭の中であの青年がよぎる。
しかしそれを消し去るように叔母の話は続いた。
「またそんな事言う。だめよお、依子ちゃん若いんだから青春しなくちゃ。今しか出来ないこと、勉強以外にもあるのよ。
まあでも年が離れすぎてるからねえ。とりあえず、今日挨拶来ると思うから、楽しみにしてるのよ。」
じゃあね、と叔母さんは嫌味のないにっこりした笑顔でドアを閉めた。

「…今しかできないこと、か…」
依子は苦いチョコレートを食べたかのように顔をしかめた。
「…本読もうと思ったけど、なんだかその気無くなっちゃったな。気分転換に掃除でもしよう。」


午後になり、昼食を済ませ、少し眠ろう、とベッドに潜りこんだ。


夢を見た。
灰色の世界に一人取り残された自分。
泣いても叫んでも、誰もいない。光のない、灰色の世界。

「だれか…たすけて…」

玄関から声が聞こえる。ああ、誰かがいる。私をこの世界から救ってくれる。
「誰…」

しきりにベルと少し困ったような声が聞こえてくる。
どこかで、聞いたような…

「すみません!留守かなあ…でも大家さんに、今日お隣さんに絶対挨拶しなさい、って言われてるし…」


依子はハッと目を覚まし、頭が混乱している中、急いで玄関のノブを回した。
「は、はい!すみません、どなたで…」
「あ、やっと…」

依子は叫びそうになった。相手もわあ、と既に小さく叫んでいた。

「君!依子ちゃんだよね!?」
「え、あ、えっと…!」
依子はしどろもどろになりつつ、自分の恰好が長年使っている部屋着なのに気づき、急いでドアを閉めた。
「え、え!?ちょっと、依子ちゃん!?あ、もしかして違った…!?」
依子は赤面した顔を覆い、高鳴る鼓動とともにに困惑した。
なんで、あの人がここに、そういえば、叔母さんが今日引っ越してくる人が挨拶してくるって、もしかして…

「…あの…隣に引っ越してきた、向居夢と申します!すみません、知り合いに似た方だと思って、つい…」
依子の胸の鼓動は治まらない。
向居夢。あの人の名前だ。あの人の声だ。間違いない。

「挨拶しに来たのですが…あと、粗品を…」

依子は身だしなみを急いで整え、改めてドアノブを回した。
「…すみません、びっくりしちゃって。…向居さん、ですよね。」
ドアを開けた先には、吃驚とした様子を見せ、しかしそれも一瞬で、すぐにまたあの時のような朗らかな笑顔を向居夢は見せた。
「ああ、良かった。やっぱり依子ちゃんだね。久しぶり、また会えて嬉しい…というかすごい偶然だね、ここに住んでたんだ。」
「…ええ。叔母が大家なのと、学校が近いから」
「そうなんだ。ここの近くの学校っていうと…もしかして夢斐子…?」
「はい」
火照った頬を見せたくなく、俯きながら短い返事をした。
「これもまた偶然だね、僕も夢斐子出身。あんな立派な学校出て、今はしがないフリーターなんだけどね。」
「…え、あ、あの、叔母さんから聞いたんですけど、小説家志望、って…」
「ははは、バレちゃったか。いや、隠すつもりもなかったんだけどね、依子ちゃんには。」
依子ちゃんには。
胸の奥が暖かくなった。同時に心臓が締め付けられる気持ちに陥った。
「とりあえず、今日からお隣さん同士だね。よろしくね!」
はい、と律儀に和菓子でも入っているような紙袋を丁寧に渡し、じゃあ片付けとかあるから、と夢はドアを閉めようとしたが、思い出したように、

「またね、依子ちゃん。」

そう残し乾いた音でドアが閉められた。

依子はへたへたとその場に座りこんだ。
まだ胸の高鳴りが治まらない。鼓動が波を打っている。
頭が回転しない。思考が追い付かない。

「…また、会えた。
…本当に、会えた。」


依子は夢から渡された紙袋を抱きしめた。


雪は、いつの間にかやんでいた。
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