大人にはなれない

「もういいよ。どうせ部活のパート練のとき、音楽室準備室からここの花壇毎日見てるし。何咲くかすぐわかるんだから!」

言い終わってから、急に中村は焦ったように付け足した。

「あ、でも毎日って言っても、その、あたし、美樹くんのこと見てたわけじゃないからね?準備室からちょうど見えるだけだから」
「知ってる。手前の窓際からだと、ここよく見えるからな」

俺の言葉に、中村は急に強気を取り戻してにやけだす。

「じゃあ美樹くん、先月一生懸命この花壇に種まきしてたのって、あたしのためだったりする?いつも準備室にいるカノジョに、きれいなお花見せようとしたとか?」

中村はいかにも冗談ぽくきゃらきゃら笑いながら言うけれど、俺は思わず息を飲んでしまった。石のように固まってしまった俺を見るうちに、中村はだんだん笑い声をちいさくしていく。

「あはは、なんちゃってね………あたし元カノのくせに何言ってるんだろ……まさかそんなわけないのにねっ」

折角中村が俺が否定しやすいように話を向けてくれたのに、上手いことが言えずにただ黙り込んでしまう。

息吹のように上手く受け流してうやむやにすることも、斗和のように器用に冗談に落とすことも出来ない俺は、自分の耳がじりじり熱を持ち始めるのをただ感じることしか出来ない。


「やだな、美樹くんなんとか言ってよ」


中村と俺との間にある微妙な空気が、沈黙に変わっていく。

気まずい。だけど、でもそれだけじゃなくて。中村まで顔を赤くするから、腹の底がこそばゆいような座りが悪くて落ち着かないような、妙な気分になってくる。


まだ1年生だった頃、俺は「学校でいちばん美人」だとか「吹奏楽部の天使」だとか、そんな肩書きでしか中村のことを知らなかった。

でもあるとき、放課後にいつも2階の音楽準備室の窓辺に誰かが立っていることに気付いた。フルートを持っていたそいつも、花壇の手入れをしている俺に気付いて、ほんの一瞬お互いの視線が合うことがあった。

最初はその偶然の数秒が、ただ気まずいだけ。

だけど目が合うことが何度か続いたある日、そいつはフルートを持ったまま、視線の合った俺にぺこっとちいさくおじぎしてきた。それが中村だった。

見上げた先にいる、キラキラしたきれいな銀の楽器を持った中村は、毎日土まみれになって腹を空かせている俺からすれば、決して目線の高さが合うことのない別世界の人間。

だから俺は無視するように背を向けてすぐに視線を逸らした。それでも中村は懲りずに、目が合えば俺に会釈してきた。からかわれているんだろうと思ったけど、何週間も続いた後、根負けして俺も会釈を返した。

俺が反応したのがよっぽど意外だったのか、中村はそのとき大事なフルートを取り落としそうになった。思わず目が離せなくなってじっと成り行きを見ていると、無事にフルートを持ち直した中村はもう一度俺の方を見た。

それからくすぐったそうに笑って、急に窓辺から離れてしまった。


噂で聞いていたどんな評判よりも、そのときの中村の表情が鮮烈で。

急に心の奥から湧いてきたわけのわからない動揺だとか、気恥ずかしさだとか、妙に浮き立つような気持ちだとか、複雑に混じり合った感情を自分の中で上手く処理することが出来ずに、俺は中村が見えなくなっても準備室を見上げたままでいた。


今もそのときみたいな気分だ。

不快じゃないのに、中村の前に立ってることがくすぐったくて、なんだか苦しい。


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