潮風の香りに、君を思い出せ。
第五章

全部海に流れても

林を抜けて港に戻ってから、大地さんに聞かれた。

「大丈夫? 何か嫌なこと思い出した?」

嫌なこと? うん、嫌だった。怪訝な声で追い払われて、確かにあれは嫌だった。

でも大したことじゃない。ずっと思い出しもしなかった。そんな人がいたこともこの海のそばに住んでいたことも、全部忘れていた。だから大したことじゃない。

こんな風に重苦しい気持ちになっているなんて何かおかしい。

「思い出したけど……」

大したことじゃないのに何で口にできないんだろう。おばあちゃんに会いに行ったけど忘れられちゃってたんです。それだけのことなのに。

「子どもだったから、よくわかってなかったんです」

大地さんは黙ったまま歩きながら続きを待っている。

「ぼけてるっていうのが、どういうことかってことが」

微妙にごまかしながら声が震えてかけていた。手を強く握られて、大地さんに気づかれたことがわかった。

なんで手をつないでるんだろうと急に思う。ちゃんとするまでつながないって言ったくせに。

ぼけるってどういうことか今ならもちろんわかる。忘れてしまうこと、目の前の人が誰だかわからないこともあること。



「でも大丈夫です」

大地さんの手を軽く振りほどくようにして、海沿いの低いコンクリートの塀の上に登って歩き出す。

「忘れられたなんて大したことじゃないって、今ならわかってます」

どういうわけかまだ泣きそうだった。またごまかそうとしても無理だとわかっていた。でも絶対になぐさめられたくなかったし、説明を求められても無理だった。

塀の上を端まで、両手でバランスを取りながら一人で先に歩いて行った。端まで来て、飛び降りる前に見上げた空はやけに明るくて、意味不明に落ち込みかけている自分が場違いに思えた。

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