潮風の香りに、君を思い出せ。

「本題だけど、さっき何がどうなったと思った?」

大地さんは隣の私に少し身体を向けるようにして、興味深そうに聞いてきた。座り直したのか、少し距離が開いてほっとする。

「風が吹きましたよね。海風」

正直言って、どこまでが実際にあったことでどこからが私の想像なのかわかっていない。

きっと海の匂いを含んだ風が吹いて、私の記憶にある海の風景がフラッシュバックしたんだろう。海が見えたというか、海にいると思ったとまではこの人には言えない。幻覚みたいだもんね、それって。


「俺は海が見えた気がした。あの辺りの浜な気がして気になるから確認しようかと思って」

大地さんは、思い出そうとするように首を傾げて目線を上にあげた。

「昼飯ぐらいおごるからさ、一緒にいかない?サボって平気なんだよね? ナンパでもストーカーでもないから安心していいよ」

私は誘われている内容よりも、別のところに驚いていた。

今、『見えた』って言った? そういうの、そんなに軽く言っちゃうの? そういうのって普通信じてもらえないんじゃないの。



驚いたまま黙っていたら、迷っていると思われたのか重ねて聞かれる。

「どう? まだ行かない理由ある?」

強引な割には律儀な人らしい。なんとなくOKしたことにはせず、はっきりと返事を求めていることがわかった。

「行ってもいいです。ちょっと逃げ出したい気分だったし」

「やった。久しぶりだなぁ」

また目尻にシワ。本当に嬉しそうに笑う人だ。仕事が辛いとかあるのかな、こんな笑顔の人でも。見えないところの苦労がこの人の人生にもあるのかと思うと、自分の悩みも少し軽く思える気がする。



顔も覚えられなかったよく知らない人。そういう人と出かけちゃっていいのか、犯罪ってちょっとした顔見知りが一番危ないんじゃなかったか、少し考えてはみる。

でも、そういう警戒心を持つのがバカバカしくなるような機嫌のよさ。週末より一日早く休みが始まって嬉しいのかもしれない。



よし、気持ちを切り替えて私もたまには出かけてみよう。

この楽しげな人について行って楽しんでみよう。

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