ポプリ
 物心つく頃には、もう、兄は車椅子の人だった。

 特注の電動車椅子は兄の手足のように動いて、どこへでもスイスイと歩いていった。たまに他の人の手を借りていることもあったから、ボクも何度か押してあげたことがある。

 自分の足取りも覚束ない子どもに任せるなんて、とても怖かっただろうし心配だったろうけれど。兄はいつも優しい笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。

 小さなボクには車椅子もカッコよく見えて、よく膝に乗せてもらって移動したりもした。

 兄はいつでもふわりと優しく笑う人で、ボクはその笑顔が大好きだった。

 その笑顔に、何の疑問も抱いてなかった。




 あれは、小学生の頃だったろうか。もう卒業する頃だったと思うから、そのことははっきりと覚えている。

 その頃兄は橘の事業の一部を父から任されていて、屋敷の執務室に篭っていることが多かった。

 テキパキと仕事をこなす兄はとてもカッコ良くて、でも仕事の邪魔をしてはいけないと思って、学校から帰ってきても夕食まで兄に声をかけることはなかった。

 けれどもその日は違った。

 仕事の息抜きだったのか、それともただの気まぐれか。

 兄はリビングに置かれている父のベーゼンドルファー(ピアノ)に向かっていた。

 それは珍しい光景だった。

 昔ピアニストを目指していたとは聞いていたけれど、兄がピアノを弾いている姿を見たことはなかったのだ。

 ちなみにボクは祖父母の影響でヴァイオリンをやっている。中々の腕前だと自負しているし、将来はヴァイオリニストを目指そうかと思っている。

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