甘く、切なく、透明な
 そして、またそれから何年も経って、ふと沙耶子は彼の名前をゆっくりと打ち込む。

 沙耶子が初めてインターネットの中を覗いた時からずいぶん時代は変わっていて、個人がSNSで簡単に情報発信することが当たり前になっている。小学生の女の子だってブログやツイッターを書く時代。わざわざ男を偽っていた自分を思い出し、沙耶子は口元を緩ませた。

 知らぬ間に、奥島もツイッターを始めたようだった。そのアカウントを何気なくクリックして、それから沙耶子はそこに表示された文字に胸を詰まらせた。

 紛れもない奥島の顔写真の横に、アカウントが表示されている。

 masaki okushima (okushima38) on Twitter

 38って、沙耶子のサヤ、ってことかあ。

 もう、過去に集中しないと消えてしまいそうな奥島の深い声が、沙耶子の耳に蘇る。

 アカウントをつくるときに、使いたいユーザーネームがほかの人に使われていて、その後ろにさらなる文字や数字をつけなければならないことはある。けれどそこに「38」という数字を選んだということに、沙耶子は彼の気持ちを読み取っていた。

 私のしたことを、許してくれているの?

 胸の中に、はっきりと沙耶子は奥島からのメッセージを聞いた。奥島は沙耶子に語りかけていた。

 僕も悪かったんだ。沙耶ちゃんと僕のことを、僕はもっとちゃんと考えるべきだった。でも、沙耶ちゃんのことが特別だって言ったのは、嘘じゃなかったんだよ。けれど、あのときまだ二十歳にもなっていない女の子に分かってもらおうだなんて、僕は沙耶ちゃんに甘え過ぎてた。

 沙耶子以外には分からない、その思い。きっと誰に話しても、偶然だとか、沙耶子の思いこみだとか、そんなくだらない批評をするだろう言葉。

 その人はともすれば泣きだしそうになる沙耶子を、気の毒そうな目で見つめるだろう。けれど、二人の間にしか分からないことは、誰かの客観的な意見で語られることではないことを、沙耶子ははっきりと感じていた。

 沙耶子は自分の周りをくるりと見渡して、何かを探した。それは、沙耶子が切ったと思い込んでいた、彼と彼女を繋ぐ糸だった。二人を繋ぐ糸は、光を弾いて、まだ確かにそこにあることを確かめたかったのだ。

 指先に触れるもの。この糸の先に彼がいる。沙耶子はそれを信じた。


 沙耶子はいつものように検索結果から、奥島のツイッターのアカウントを選び出すと、アドレスをダブルクリックした。

 そこには六年前から変えていない自分撮りの顔写真と、それから一向に増える気配のない幾つかの写真が表示された。

 そして、肝心のつぶやきは、確かに今朝の日付だけれど、何かほかのアプリケーションによって定時更新されるだけの「ニュースを更新しました!」というメッセージが表示されるだけになっていた。

 それはこの人の生存証明になるんだろうか。沙耶子はこのつぶやきを見るたびにそんなことを思った。それとも、あの数年前のブログの残骸と同じに、このツイッターもネットに残った少ない彼の軌跡なんだろうか。今、彼はどうしているのだろうか。

 彼は私の名を、この箱に問うているだろうか。

 沙耶子の頭に一瞬の苦しさが過る。もし彼がそうしていても、沙耶子の痕跡は絶対に見つからないはずだった。あれ以来、沙耶子はインターネット上に自分の場所を開くことなく、あの頃に残した痕跡も時間と共にすべて消えていくはずだった。

 沙耶子はもう星の中に星座を見つけようとはしなかった。だから、沙耶子は一人になった。もう恋はしないだろう、そう思った。

 それは漠然とした考えではなく、はっきりとした予感だった。そしてその予感通りに沙耶子の人生は進んだ。あるべき隣にいる人の存在だけすっぽりと抜け落ちて、そのほかには足りないものなどない。沙耶子はパソコンを閉じて、少し目を瞑った。


 粉々に散らばる破片を集めるようにして知った奥島はまだ独身で、沙耶子はそれが自分のせいなどと自惚れるつもりはなかった。けれど、あのとき、奥島が徹に心を傾けなかったら、沙耶子が繋がる糸の存在だけを素直に信じていられたら、きっと現在《いま》は違っていたはずだった。たまらないくらいの幸せと、それから耐え切れないほどの寂しさの渦の中で。けれど結局それは「何時か」の問題で、沙耶子はどの道、奥島の許から去ったのかもしれなかった。


 けれど、糸はまだ繋がっている。

 沙耶子はそれを確かめるために、寂しい夜に、電子空間につけられた奥島の痕をなぞった。星屑のようにそこかしこできらめく彼の言葉はあの頃のままで、そのきらめきを探し出せる沙耶子も、きっとあの頃のままだった。

 沙耶子は目を開けると履歴を消し、そっとパソコンを閉じる。熱を帯びた機械が、ため息のような音を残して冷たくなっていく。糸はまだ繋がっている。けれど、沙耶子はその糸の繋がる先を求めない。ただその先を想像するだけで十分で、それだけで精一杯なのだ。

 好き。愛してる。そんな言葉は年と共に失ってしまった。あのとき二人が求めた、その上にある感情まで、沙耶子は今ならやっとたどり着けたような気もする。光を弾いて見えない糸と同じに、沙耶子の胸の奥で決して光に晒されることのない思い。

 甘く、切なく、透明な――心を満たす感情。

 指に冷たい窓の外にも、変わらぬ月が夜に見えた。

 私が夜空に月を探すのは、どこかで月を見上げているあなたを知っているからなのよ。

 それは変わらぬ告白だった。生身の吐息にガラスが曇る。

 この街のどこかに、彼はいるのだ。

 沙耶子は、顔のない人の群れを胸に思い浮かべた。

【完】
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