甘く、切なく、透明な
 突然のメール、失礼します、から始まったそのテキストはとても慇懃なものだった。

『――『趣味の問題』、僕も見ました。ケビン38さんもおっしゃっていたように、原作はかなり精神的な要素の強い小説ですよね。
 それなのに、あの淡々とした画の中に詰め込まれた感情の厚みに、僕も圧倒されてしまいました。ああ、でも僕の言いたいことは、すべてケビン38さんが書いてくださっているので、僕にはもう何も言えないかも。
 ところでケビン38さんは監督の他の作品――『私家版』もご覧になられたんでしょうか。僕の知人にはあの映画の良さを分かってくれる人がいなかったので、ケビン38さんには勝手にシンパシーを感じております…。すごく嬉しかった勢いでメールしてしまいましたので、乱文お許しください。ご迷惑でないことを祈ります。   okushima
 追伸 僕がよく利用する映画掲示板です。映画好きの方々がたくさんいますので、ケビン38さんもきっと気に入ると思います』

 そのあとには、どこかの掲示板のアドレスが貼られていて、そこでメールは終わっていた。

 私の他にもこの映画が面白いと思っている人がいる。

 沙耶子はそれだけで嬉しくて、何度もそのメールを読み返した。映画なんてたくさんの人が見るものだ。だから、きっと「趣味の問題」や「私家版」にもたくさんのファンがいることだろう。

 けれど、沙耶子の身の周りには――そしてokushimaと名乗る人物の周りには、作品のファンがいなかった。だから二人はそれぞれインターネット上に同じ思いを抱く人を求めた――。それだけの共通点が、沙耶子には嬉しかった。

 それはまるで、無関係に見える夜空の星が星座で繋がったようだ、と彼女は思った。そして、それからすぐにokushimaが見ているという掲示板のアドレスを踏んだ。

 フィルムズ・ネットワーク、という青い文字が颯爽と現れた。それがこの掲示板につけられた名前のようだった。

 フィルムズにはたしかに映画が好きな人たちがたくさん集まっていた。話題もかなり自由で、ある人はお気に入りの作品について熱く語っていたり、ある人は情報を交換したがっていたりした。中には自分で映画をつくっているというような人までいて、沙耶子を驚かせた。

 okushimaはフィルムズにかなりの頻度で現れていた。注意して見ると、掲示板によく現れる人は決まっていて、大抵その五人ほどが投稿し、語り合っているようだった。

 沙耶子は少し考えてから、名前の欄に「ケビン38」と入れ、題名に「okushimaさんに紹介されました」と書きこんだ。内容は当たり障りのない挨拶のようなものだった。

 けれど、沙耶子は男であることを主張するように一人称を「僕」と書き、言葉づかいも固くなるよう心がけた。フィルムズには女性もいるようだったが、やはり沙耶子は自分が女であることを明かすのに抵抗があったからだ。

 沙耶子の来訪を、フィルムズの人々は歓迎してくれたようだった。特にokushimaは誰よりも喜んでくれ、「ケビン38さんは僕が見つけた逸材ということを忘れないでくださいよ」と冗談とも本気とも取れない文章を書き込んでいた。

 そうして、沙耶子はフィルムズ・ネットワークの一利用者となり、ちょくちょくフィルムズにアクセスするようになった。その中で、沙耶子は完全に男を演じ、他のメンバーとも仲良くなっていった。

 けれど、どんなに仲良くなっても、フィルムズの皆が「オフ会」と称する集まりに行くことはなかった。ここまで男を演じた自分が、今さら受け入れられるとも思わなかったし、やはりネットで知り合った人と会うことは怖かった。

 フィルムズに常駐するメンバーで、オフ会に行かないのは、どうしてかokushimaも同じだった。

 okushimaは「僕」と自称しているけれど、本当に男性なのだろうか。

 沙耶子はあるとき、ふとそれを怪しんだ。ネット上の言葉だけでは何も分からない。柔らかなokushimaの文章は、女性が書いたものと思えないこともなかった。

 もしかしたら、「彼」は沙耶子と同じで、注意深く男を演じる「彼女」かもしれない。

 そう思った瞬間、沙耶子はなぜか初めてokushimaに会いたいと思った。
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