アボカドとホッカイロ
 これは浮気、なのかもしれない。

 私はショックから立ち直れないまま出社すると、のろのろと自分の席に座った。

 夫がお風呂に入っている間にこっそりと読んだ、慶介くんの過去は完璧だった。

 慶介くんは関西にある大学の史学科を出て、そのまま日本史の研究をしているらしかった。私も違う大学ではあるけれど史学科を出て、今は主に歴史分野の本を出版する仕事についている。

 これは偶然なの? 私は打ちのめされた気分でため息をついた。同じ歴史の仕事をしているなら、話だって合いそうな気がしてしまったからだ。

 私はショックのついでに、慶介くんが講師をしているという大学のホームページにまで、ストーカーのように辿り着き、慶介くんの名前を探し出した。

 そこには確かに日本近代史の講師として慶介くんの名前が載っていて、その隣にはご丁寧にも小さな顔写真まであった。ブログの笑顔とは違って、こちらはきりっと真面目な顔をしていて、それもとってもカッコ良くって、私はさらに打ちのめされた気分で泣きたくなった。

 そういえば、慶介くんってイケメンだったんだよな。

 私の頭の隅には、今はもうクリアに慶介くんの顔が浮かぶようになっていた。思えば小学校の頃だって、女子に人気があったのだ。今も、あんなに格好いい顔立ちをしてるのなら、女の子は放っておかないだろう。

 ブログには、彼が今独身なのか、既婚かまでは書いていなかったけれど、特にそんな話題がないならきっと独身だろうと私は勝手に推測して、そしてもう一つ、大きなため息をついたのだった。

「昨日、眠れなかったの? 何だか疲れてるみたいだけど」

 出勤前に、何度もため息をつきながら鏡に向かう私に、夫は心配そうに言った。

「ううん…」

 私は生返事をして、もう一度ため息をつく。夫はネクタイを締めながら、そう? と首をかしげて、それから思いついたように言った。

「ホッカイロ、持ってけば? 背中に貼れる、シールがついたやつ」

「…え、何で?」

 夫はこれっぽっちも悪くないのに、私は思わず不機嫌な声を出した。私は今まで夫に秘密なんて持ったことがなかった。何でも二人で共有してきたのだ。

 それなのに、今はその夫に言えないことに頭を悩まされている。だから夫には悪いけれど、今はそっとしておいてほしかった。

 しかし、夫は私の心の変化に気付かない代わりに、今私が不機嫌そうなことも意に介さない様子だった。

「だって、最近寒くなってきたからさ。美咲、冷え性でしょ? それで具合悪いのかなって」

 私は風邪ひいてるわけじゃないの、あなたのことで悩んでるの!

 私は泣き出しそうな気持ちでいっぱいになったけれど、それをぐっと飲み込んで、重たい資料の詰まったカバンを持ち上げてすたすたと玄関へと歩いた。

「あ、もう出るの? いってらっしゃい」

 夫がいつものように明るく私に声をかける。私はいってきます、と小さくつぶやくと、ドアを開けた。頑張ってね、と夫が走り寄ってきて、肩にかけたバッグの中に何かを滑り込ませる。しかし、私はそれが何なのか確認することもなく、ただ駅までの道を早足で歩いた。

 私は今や、何も非のない夫にすら腹を立てていたのだ。

 あなたが私の気持ちに何にも気付いてくれなかったら、私だって夢の中の慶介くんに応えちゃうかもしれないわよ。だって、あれは夢なんだから。夢の中くらい、あなたの存在なんか忘れて、好きって言ってくれる慶介くんの手を取ったっていいと思わない? でも、私にはあなたがいるから、夢の中でだってあなたを裏切れないから、こんなにすごく悩んでるのに!




「飯塚さん、明日の資料、用意できてるよね。『日本の行く末』の企画」

 朝から陰気な雰囲気を振りまく私に、これも何も気付いた様子のない課長が声をかける。男って、本当に疎いんだから。私はそう思いながらも、仕事用の声を出す。

「あ、はい。いらっしゃるのは松村先生だけですよね。企画説明と、執筆の依頼ということで」

「そうそう、よろしくね。資料は三部、用意して」

 わかりました、と私は返事をして、朝からそのままにしていたカバンの中を探り、資料を出して確かめる。

 松村先生というのは、うちの企画で何作か書いていただいている、大学の先生だ。ため息をつきながら、取り出した資料に振った番号を確認していると、中から何かがストン、とスチールの机に上に落ちた。

「あ、ホッカイロ…」

 夫が今朝、カバンに滑り込ませたのはこれだろう。

 風邪じゃないって言ったのに。

 私はホッカイロを抽斗の中に放り込んで、それから文字どおり机に突っ伏して頭を抱えた。

 一体、私はどうしちゃったんだろう。

 スチール机のひんやりとした冷たさが、私の頭の熱を奪っていく。夫としか幸せになれないことなんて、私自身が誰よりもよく知っている。これが私の人生において一番の幸せだということも、これ以上の幸せなんて存在しないことも。

 それなのに私は夢の中で、あの写真の通りにはにかむ慶介くんの気持ちを受け止めたいだなんて、そんな罰当たりな事を望んでいる。

 たしかに、これは浮気だ。

 夫がもし、夢の中で初恋の女の子の手を取り、その子に僕も好きだよなんて囁いていたら、そしてその夢を私が知ってしまったら、私は夫を責めるだろう。私と結婚しておきながら、私と毎日一緒に暮らしていながら、心の奥底では私を愛していないのかと責め、苦しむだろう。

 そんな思いを夫にさせちゃダメだ。

 私は痛いほどぐっと唇を噛みしめた。こんなこと、してちゃダメだ。慶介くんのことなんか、きれいサッパリ忘れてしまおう。二度と夢に見ないように、考えることだってやめてしまおう。

 私はそう決めて、顔を上げて仕事にかかった。もう、絶対に慶介くんのことなんか考えない、思わない、絶対に忘れる。そう誓って、それなのに――。




 それなのに、私はまた慶介くんの夢を見た。

 慶介くんはホームページで見た写真と同じ顔をしていて、私は、写真を見ただけで夢の中にも早速反映されるなんてすごい、と感心する。

 そんなことを思えるほど、今夜の私はこれが夢の中だとはっきりと意識していて、もちろん夫の存在だって最初からきちんと覚えていた。

 夢の中の慶介くんは、冷めた私の考えを知ってか知らずか、いつものようにはにかんだ笑顔で私に、「俺、君のことがずっと好きだったんだ」と言う。

 夢の中だと知ってはいるけれど、あんまりにカッコイイ慶介くんに私は恥ずかしくなってうつむいて、どうしても目の前の慶介くんの誘いを断りたくなくなってしまう。

 どうしよう。私は決断を迫られて、それからふとある考えが浮かんだ。

 今の私は、こんなにはっきりここが夢の中だって知ってる。それなら、思い通りに楽しんでもいいんじゃないだろうか。私が言わなきゃ、夫には絶対にばれないんだし、夢の中限定の恋人になってもらったら…? いつまでもこうしてうじうじ悩んで考えるより、きっとそのほうが現実の生活にも張りが出るに決まってる。

 どうしたの? と、慶介くんが私の手を握ろうとする。やっぱりちょっと待って! 私は手を引っ込めて胸の中でじたばたあがく。

 でももし、万が一、夫に知られてしまったら、私は生きていけない!

 結局、夢と分かった夢の中でも、私は踏ん切りがつかないのであった。
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