君の声が聞こえる
第三章
水の中は私の世界
ここにいれば何も怖くない

水の中ならば何だってできる
私は何にだってなれる
誰も私を止めることはできない

愛してる、この世界を
ずっと泳いでいたい
ずっと漂っていたい
私はーーー……


あの瞬間まで、
この世界は私のものだったのに。




(プールって、こんなに大きかったっけ)

 総合体育館に併設されたプールに入った途端、駆琉はそう思わずにはいられなかった。
 だって何もかもが違うのだ、自分が知っている「プール」とこのプールは。
 広くて大きくて高くて静かで目が眩みそうになる、頭がクラクラとして駆琉は額を押さえた。

(そっか……僕は今まで25メートルプールでしか練習してなかったから)
 本格的な練習をすることも可能なプール。普段練習しているプールの倍の50メートルもの長さがある、たったそれだけでも随分と視界が違う。
 スイミング同好会が練習する学校のプールも、駆琉が自主練をしていた市民プールも25メートルだった。
 横に長い分だけ縦も高い。
 天井も高いので解放感もたっぷりだ、駆琉は自分がひどく小さく感じてしまう。
 プールの中には視界を遮るものがないせいだろうか、日常の中の一部のはずなのにプールと言うものは何処か非日常的だった。

「と、飛び込み、もあるんだ」
 駆琉は思わずひとりで呟いた。
 もちろん駆琉とて飛び込みは練習したが、市民プールには飛び込み台はなかったので学校での練習だけに限られていた。
 自信があるか、と言われたら微妙なところで出来ることならばない方が有りがたい。
 飛び込みと言うものは簡単に見えて難しく、ほんの少しのミスでも水面に腹から叩きつけられることになるのだ。

(水面って痛いんだよね……コンクリートにぶつかるみたい、って聞いたことあるし)
 頭から飛び込むと痛さを感じないっていうのに、叩きつけられるとどうしてこうも痛いのか。
 飛び込み台1つで眉を寄せている駆琉に気付いたのか、対戦相手である前田がチラリ、駆琉を見た。からかうような視線で。
 その視線はひどく不愉快で、駆琉の胸をチリチリと焼く。苛立ちが生まれる。

『僕がアナタより速く泳げたら、安西さんに近付かないで』
 自分が持ちかけた勝負だ、負けるわけにはいかない。
 落ち着こう、と駆琉は息を吐き出した。

「飛び込みが苦手なら飛び込まなくてもいいけど? 水深2メートルだから飛び込まずにスタートするのは初心者クンには、ちょっと大変かもだけど」
 自分が水泳歴が浅いというのは何となく彼らもわかっているらしい。
 水深2メートルもあるせいでこのプールは利用する前に泳力テストがあり、ある程度泳げるかどうかを判断される。泳げない場合はこのプールを利用できないのだ。
 ついさっき、自分がそれを受けているところを彼は見ていたはずだから、その泳ぎ方で初心者だと察してしまったのだろうか。

「大丈夫、です」
 ここで素直に「飛び込みが苦手なので、飛び込みしなくてもいいですか」なんて言ってしまえるほどプライドを捨てることはできない。
 駆琉がそう言うと、前田は「ふーん」と何が楽しいのか再び笑った。
(それにしてもーーー……そう言えばここ、水深2メートルもあるんだった)
 市民プールは1.4メートルで腰の高さくらいまでしかなく、学校のプールは1.7メートル。
 駆琉の身長であればギリギリ足がつくかつかないかという深さだったから、いざとなればコースの真ん中で泳ぐことをやめ、立つことだって出来たけれど。

(足がつかないのは初めてだ)
 そう思った瞬間にゾッとした。
 天井が高いせいか、このプールは水の音がいやに大きく響く。
 解放感というものは、裏返してしまえば孤独に近い感情だーーー……そうだ、僕はこの大きくて広くて高い空間で、たった独りで泳がなければならないんだ。

 広い。広い、プール。
 50メートル先は余りにも遠い。
 プールの向こう側、ガラスの壁の向こう側ではあの女子学生が笑ってる。
『安西なんて負け犬に教わってるんだから、アナタもきっと遅いんでしょ』
 ドクン、と心臓が鳴った。
 彩花は未だここにいない、自分を見ていない。これは僕と安西さんの勝負だから、と応援するといった若葉を断った。

(僕だけで戦うんだ)
 自分が仕掛けた勝負。
 大きくて広くて高い空間で、遠すぎるコースで、静かな世界で。
 たった独りだけで戦うんだ。
 彩花をバカになんてさせない、そう思っているのに。

(……怖い)
 気を抜けば震えそうになる自分の手を、駆琉はグッと握りしめた。
 怖い、怖い、怖い。
 彩花のおかげで水に対する恐怖はもう拭えたと思ったのに、こんなにも怖い。
 大きくて広くて高くて静かで、まるで自分だけが取り残されてしまったかのようだ。
 今すぐにでも逃げ出したい、こんな情けないことを考えたくないのに。怖くて怖くて仕方ない。

「じゃあ200メートル自由形。1本勝負ってことで」
 飛び込み台の上に立つと、その高さにクラクラとした。そんなに高くない、とわかっていても足が震える。
 前田の言葉がぐるり、と駆琉の頭の中で回る。200メートル。
(200メートル……30メートルしか泳げないのに、そんなの、無理だ)
 怖い。
(でも泳ぐんだ)
 無理だ、できない、怖い。
 そんな言葉を何とか抑え込む。

(怖い、怖い、怖い……)
 ピ、と笛の音がした。
 位置について、の合図だ。駆琉は身体を折りたたみ、飛び込み台に指先を当てるーーー……キラキラと水面が輝く、水がぶつかる音がする。
 彩花の顔が頭の中を過った。
(安西さん、僕は……)
 ピーッと長い笛の音、一瞬だけの静寂、水の音がする、水面がキラキラと輝く、目眩がした。
 次の瞬間、短い笛の音。
 それを合図に指先から水面に飛び込む。飛び込みは上手くいった、ほとんど練習してないにしては。

(水中にいる間はきちんと下を向いて、息を吸うときは……)
 飛び込みが上手くいったことで、恐怖に怯えていた駆琉の身体がぎこちなくだが滑らかに動いてくれる気がした。
 大丈夫、この調子でいけばきちんと泳ぐことができるはずだ。
 さっきまで怖いと思っていたはずなのに、心の中で彩花と若葉が教えてくれたことがよみがえってくる。
 大丈夫、泳げる。何も怖くない。

(肘を曲げながら水面に出して……)
 ああ、ダメだ。
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