憚りながら天使Lovers
天使エレーナ
(これはコトリバコじゃない! 硫化水素だ!)
 玲奈は卵の腐ったような臭いでピンとくる。一時世間を騒がせた硫化水素自殺事件は、ちょうど玲奈の暗黒時代に当たり、完全自殺マニュアルよろしく、硫化水素自殺についてもよく知るところだった。濃度によっては即死とされる硫化水素だが、この化粧箱程度の大きさだと即死はないだろうと瞬時に考える。
 しかし、死に直面していることは間違いなく、すぐさま恵留奈の心配する。咳をしている恵留奈を見ると、何も言わず無言で手を引いて蔵の外に出ようと試みる。硫化水素が真っ先に呼吸器系に来ることを知っているだけに、まともに会話することも出来ない。
 扉に手を掛けると予想はしていたが全く開く気配がない。渚を見ると、苦しむ二人を愉しむように防毒マスクを装備した上で観察している。
(コイツ絶対許せない!)
 肩に担いでいた恵留奈が急に重たくなり、意識を失ったことに気づく。
(ヤバイ、このままじゃ二人とも死んでしまう。私はともかく恵留奈だけでも助けたい! でも私の力じゃ扉も蔵も壊せない。仮に今ここで光集束が出来ても、悪魔でもない渚を倒せないし、硫化水素を消すことも出来ない。でも確か光集束は退魔と浄化、両方の能力があるって言ってた。硫化水素が浄化の対象になるかどうか分からないけど、やらなきゃ可能性は0だ。力を貸してルタ!)
 目を閉じ呼吸法でイメージした光を心を込め、右手にその全てを集める。祈る気持ちで目を開けると、右手の掌がほんのり明るくなっている。そして、嬉しい予想通り光っている部分の空気が光に吸収され浄化されているようだ。
(で、出来た? けどもう今にも消えそうだ。とてもじゃないけど、蔵全体の硫化水素をどうにか出来るレベルじゃない。私にできることは……)
 呼吸が出来なくなり意識が薄れる中、最後の力を振り絞り恵留奈の口元に、光集束された右手を当てる。
(少しでも私より長生きして欲しい。恵留奈、今までありがとう……)
 意識が薄くなり目が見えなくなる最期の間際、恵留奈の目が大きく見開かれたような気がした。

 目を開けて目の前の景色を見ると、青々とした森林が広がっている。
(天国の森の中? それとも地獄かしら?)
 ボッーとする意識の中、自分が置かれている状況を把握しようとする。地面に横たわっているようではなく、何かにもたれ掛かっているようで、妙に心地がいい。腰の辺りを見ると、長く細い腕がお腹の前でクロスしている。
(腕? 誰のだろ、っていうか私、背後から抱きしめられてる?)
 確かめたい気持ちがありつつも、心地のよさに手を見つめたまま身を任せる。じっと見つめていると、抱きしめている相手が話し掛けてくる。
「そのままじっとしてなさい」
 聞いたことのない美しい声が玲奈の耳元で囁かれドキリとする。
「まだ体内の毒素が抜け切れてないわ」
(毒素?)
 その言葉を聞いて玲奈の中で瞬時に事態が再思考される。
(毒素を抜かれているということは私は人として生きてる。だからここは現実。じゃあ、抱きしめているのは……)
 振り向こうとするのを悟られたのか、相手は更に強く抱きしめてくる。小柄な玲奈ではどうすることもできない。
「ダメよ。まだじってしてなさい」
 言われるように、硫化水素の影響か身体が上手く動かせない。ただ、声は出せるようなので思い切って聞いてみる。
「あなたは誰ですか?」
「私は恵留奈よ」
(恵留奈? 嘘だ、声色が全然違う)
「ごめんなさいね、正確には天使エレーナ。背中から失礼、はじめまして玲奈さん」
(恵留奈の顕在化した天使だ!)
「は、はじめまして」
 玲奈は緊張気味に挨拶する。
「さっきはありがとう。私のことを気遣かってくれて」
(さっき? 硫化水素のときのことかしら)
「さっきの件だけじゃなく、少し前にも力尽きた私に心流を注いでくれた。本当に感謝してるわ」
「いえ、恵留奈は親友ですから当たり前です」
「いい娘ね。恵留奈も私も幸せ者だわ」
 エレーナの心流が体内の毒素を浄化しているのか、体内が異常なくらい熱を帯びている。玲奈はさっきの事件を思い出し、堪らずエレーナに聞く。
「渚ちゃんは? 私達どうやって助かったんですか?」
「蔵の中に充満した毒素と、渚の体内にいた悪魔もろとも浄化・討魔したわ。それだけよ」
(それだけって、やっぱりエレーナは凄く強い)
「恵留奈……、エレーナは大丈夫だった?」
「ご心配なく。私は討魔より浄化が得意なの。人が作る程度の毒素なんて意に介さないわ」
「良かった。渚ちゃんは当然事件の記憶が無くなるんでしょ?」
「ええ、恵留奈の記憶もね」
「その方がいい。殺人未遂事件を起こした遭ったなんて、記憶にない方がいいもの」
「でも、玲奈さんの記憶には残ってしまうわ」
「私はいいの。こういうの慣れてるし。それに、こんな事件がなかったらエレーナに会うことはなかったでしょ? だからエレーナに出会えたってだけで良かったと思う」
「玲奈さんは本当にお美しい心をお持ちね。貴女を主としてお遣いしたいくらいだわ」
「ありがとう、でも私と恵留奈は親友。主従関係じゃない。当然、エレーナとも親友よ」
 玲奈の言葉を聞くと、エレーナは更に強く抱きしめ話し始める。
「お話はもうおしまい。今から少し寝て、次に起きたとき毒素も抜け完全回復してるわ。こちらこそありがとう。おやすみなさい、玲奈さん……また会い………」
 エレーナの言葉を最後まで聞き取れないくらい強烈な睡魔が玲奈を襲い意識が無くなる。次に意識が戻ったときには、目の前の恵留奈が肩を揺さ振っていた。
「玲奈、大丈夫か?」
「ん、ちょっと寝てた」
「暢気なヤツだな。あのさ、アタシまた記憶飛んだみたいなんだけど、何がどうなったか知ってる?」
(さて、どんな嘘をつこうか……)
「どこまで覚えてる?」
「蔵の前で渚が鍵開けるところくらい。渚にも聞いたんだけど、アタシと同じで扉を開けた後くらいから記憶ないって」
(渚ちゃんも分からないなら、下手な嘘をつかず私も分からないと答えれば三方丸く納まるわね)
「ごめんなさい。私も扉が開いたときくらいしか記憶ない」
「やっぱりか~、もしかしてこの蔵って、蔵自体が記憶喪失にさせるスタンド使いなのかもな」
(さすがジョジョオタ。そうきたか)
「意外とメイドインヘブンで、地球の歴史が一周した後の世界なのかもよ?」
「そっちがいいね~、面白い!」
 マニアックな会話をしつつ蔵を後にすると、母屋から小走りに来た渚が話し掛けてくる。手には正方形の小さな箱を抱えている。
「姉様に玲奈様、今日すいませんでした。私も自身何が起こったのかよく分からないです。ただ……」
「ただ、何?」
「メールの履歴を見て思い出したんです。これを」
(まさか! コトリバコ!)
 渚から恵留奈に手渡された箱を見ると、キラキラに光るアクセサリー入れが見られる。
「これ、中世ヨーロッパの貴族が使ってたアンティークなんです。フリマで偶然見かけたんですが、気になって調べたらなんと三十万円! 五千円で買ったから、凄く儲けちゃいました」
(どういうこと? コトリバコは?)
「渚やるじゃん。で、これくれるの?」
「あげませんよ。自慢したかっただけです」
「うわぁ~相変わらず性格悪いな~」
 それ以降、渚の名品・珍品コレクションを多数自慢され帰宅することになる。帰り際、恵留奈に気付かれないよう渚にコトリバコについて聞くと、あの話はなかったことにと真剣に謝られる。おそらく渚が言うところのコトリバコは、硫化水素の入った箱で、悪魔が取り除かれたことによって善悪の判断がつき、作ったことを後悔しているのだろう。
(なぜ私や恵留奈を殺そうとしたのかは分からない。悪魔のせいと言えばそれまでだけど、心のどこかに付け込まれような欲があったからこそ、あんな行動に出たとも言えるし……)
 生きている人間が一番恐ろしい。心の底にある、計り知れない人の闇の深さを考えゾッとする。その反面、運転しながら語った恵留奈の言葉に、玲奈の心は温かくなっていた。
「アタシ、今日の蔵のこと全く記憶にないけどさ、きっといいことがあったと思うんだ。何だか知らないけど、心の中がずっとポカポカしてて、幸せな気持ちで満たされてるから」
< 12 / 39 >

この作品をシェア

pagetop