どうしてほしいの、この僕に
 ホテルに到着し、控室で着替えとメイクをする。
 緊張のあまり、のどが乾いて仕方ない。用意してあったお茶を飲み切ると、今度はトイレに行きたくなった。
「大丈夫なの? いくらなんでも水分の取り過ぎよ」
 姉の非難がましい声を背中に受けながら控室を出てトイレに入る。
 この日のために姉が用意してくれたワンピースだ。着崩れしていないか確かめてトイレを出ると、驚いたことにスタッフの名札を首から提げた男性がトイレの前で待っていた。
「柴田未莉さんですね。探しましたよ。もうお時間です」
「え、もうそんな時間ですか?」
 確かまだ時間に余裕があったはず。そう思った途端、腕をつかまれた。
「こちらです。皆さんがお待ちです」
「ちょっと待って……」
 慌てて私の腕をつかむスタッフの顔を確認しようとしたら、背中の一部に皮膚を刺す痛みが走った。ビリビリと耳障りな音とともに、すべての筋肉がねじり上げられるような感覚が全身を支配する。
 ——やられた! スタンガンだ!
「いやっ、たすけ……ぐっ!」
 声を発した瞬間、口を乱暴に押さえられた。
 その間も背中には電気を発するものがあてがわれ、私は意志に反してその場に崩れ落ちた。
「騒がれると困るんだよ」
 その声の向こうから複数の足音が聞こえた。助かった、と希望を抱いたその瞬間、私の視界は黒い布に覆われ、完全に閉ざされてしまった。

 それからしばらく私の身に何が起こったのかはよく覚えていない。
 意識があったような気もするけど、非現実的な色彩に包まれていたから夢かもしれない。
 現実と非現実の境界を移ろっていたのはどれくらいの間なのだろう。
 全身が気だるくて、自力で起き上がることは無理だった。
 なんとなく覚えているのは何かが焦げるような嫌な臭い。そしてその直後、意識が薄れた瞬間のえも言われぬ幸福感——甘い香りが鼻をかすめ、もう何も心配することはないのだ、と大きな温かい腕に抱かれるような感覚。
 途切れ、途切れに意識が現実世界へ浮上する。
 いつからか視界は明るい。体は横たえられ、少し揺れているようだ。
 ——車?
 そう感じた瞬間、ブレーカーが落ちるように意識は遮断される。
 また夢を見る。優輝が私の名前を呼んでいた。答えようとするけど、声が出ない。私は大丈夫。私は大丈夫……だから。
 次第に意識が現実世界に留まれる時間が長くなってきた。
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