どうしてほしいの、この僕に
 なんだ、そのことか、と思いながら返事をする。昨日の大掃除のおかげで、今朝の職場は見違えるように爽やかな印象だ。
 しかし突然両肩をガシッとつかまれて、私は頬を紅潮させた谷本さんの顔をもう一度間近で見つめることになった。
「違う! お偉いさんも来るけど、違うのよ」
「え、違うとはどういうことですか」
「あの人が来るのよ! ほら、あのポスターの守岡優輝が、うちの職場に!」
「は……い?」
 思わず声が裏返る。谷本さんは私の驚愕した表情を眺めて満足そうに微笑んだ。
「ね、柴田さんも一緒に見に行こうよ」
「あ、いや、私は契約社員ですし、そういうのはちょっとまずいか、と」
「大丈夫。大切なお客様だから、みんなでお出迎えするのよ。それに柴田さんも見たいでしょう。実物をこの目で見るチャンスはそうそうないわよー」
「そ、そうですね……」
 頬がひきつるのを気取られないように、と思ったけれども、向かいに立つ谷本さんは私の反応などそっちのけで、うっとりした視線を宙へさまよわせていた。
「ああ、どうしよう。なんとかサインもらえないかな。もし握手できたら私、一生手を洗わないわ!」
 いやいや、手は洗ってください。
 テンションを上げに上げている谷本さんに内心でツッコミを入れた直後、視界に友広くんの姿をとらえた私は、無意識に背筋を伸ばした。
「後で迎えに来るから、一緒に行こう!」
 谷本さんは陽気にそう言い残すと、弾むような足取りで自分の席へ戻った。
 入れ替わりに友広くんがデスクの上に自分のかばんをドンと置く。
「おはようございます」
 小声になってしまったけど、私の挨拶は彼に届いたと思う。だけど友広くんは私のほうを見ようともせず、無言でパソコンの電源ボタンを押した。

 午前中の女性社員たちのはしゃぎっぷりを見る限り、優輝がこの職場を訪れるのはどうやら本当らしい。男性社員の大半はそしらぬふりをしているが、時折顔の筋肉を緩ませっぱなしの女性をからかうから、結局職場は普段の数倍にぎやかで浮ついた空気が支配していた。
 そして昼休みがやって来る。
 私は契約社員仲間と食堂の片隅で一番安いメニューのかけうどんをすすった。
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