どうしてほしいの、この僕に
 気が動転している私は、なぜか階段を駆け上がっていた。下りていくと誰かに遭遇してしまう可能性が高いけれども、この上は屋上だから誰もいないはず。
 鉄製の大きな重いドアを開けると、青い空が目に飛び込んできた。風が吹いて髪が乱れるのもさほど気にならない。外気を大きく吸い込んで、それからゆっくり吐き出すと、息苦しかったのが嘘のように胸がすっとした。
 バタンとドアの閉まる音がしたので、ホッとしてもう一度深呼吸する。
「こんなすてきな場所に案内してもらえるとは思わなかった」
 予期せぬ他人の乱入に、私の肩はビクッと震え上がった。気配がまったく感じられなかったのだ。役者ともなると気配を消すくらいお手のものなの?
 静かな足音が近づいてくる。私は首だけ回して優輝の姿を確かめた。
「なんでついてくるんですか」
「柴田さんは僕の案内役でしょう」
 優輝は私の隣まで来たけど、一定の距離を置き、あくまで私とは初対面の人気俳優に徹するつもりらしい。
「そうですが……」
「なにも柴田さんが逃げ出すことはないのに。『好きな人がいる』と知られて困る相手がいるなら別だけど」
 うっ、と返答に詰まる。優輝の言うことはたぶん正しい。私が逃げ出したのは、つまりそういう理由なのだ。
 だがそれを認めるわけにはいかない。強情な私は慌てて虚勢を張った。
「私は逃げ出したのではなく、ぜひとも守岡さんを屋上へご案内したいと考え、少々強引な方法を使っただけのことで……」
「だよね」
 物わかりのいい返事をしたかと思うと、続けてアハハと大げさに笑い出した優輝を、私はキッと睨みつけた。
 優輝はすぐに笑いをかみ殺し、なぜか「ありがとう」と言った。
 不意を突かれてきょとんとしている私に、彼はまぶしいほどの笑顔を向ける。
「楽しかった。いい気分転換になったよ」
「……よかったですね」
 もっと言いたいことがあるような気がしたけど、結局こんな言葉しか出てこなかった。
 ドアがギィと音を立てて開いた。振り返ると、高木さんを始めスーツのおじさまたちがぞろぞろと屋上へやって来る。
 どうやら時間切れらしい。
 優輝はスーツ陣に囲まれて、別れの挨拶もそこそこに階下へ消えた。
 騒々しいパレードでやって来たくせに、去り際のあっけなさにはなんだか拍子抜けしてしまって、不思議と物足りないような気持ちになる。
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