楽園
引っ越して来た男
華の人生はそれまで名前とは全く反対の華の無い人生だった。

学校の成績は良くも悪くもなかった。

容姿だって目立つほどの美人では無いが
一緒に連れて歩くには恥ずかしくない程度の顔はしている。

そこそこの大学を出て
そこそこの会社に勤め
3つ年上の会社の先輩の健太郎と5年前25歳で結婚した。

5年経った今でも子供に恵まれず
それどころかすでに夫は華に見向きもしなくなった。

華の仕事は部屋の中でアクセサリーを作ってネットで売っている。
売り上げもそこそこだった。

そんな華の世界はこのマンションの中が全てだった。
話相手はエキゾチックショートヘアーの子猫のミミだけだ。

あの男が引っ越して来るまでの華の人生は気が狂いそうなくらい退屈だった。

その日は雲ひとつ無い空で華は久しぶりに布団を洗った。

引っ越し屋の車が停まり布団を干していた華はその手を止めた。

「引っ越しかぁ。どこの部屋かな?」

隣でバタバタと音がし始めた。

「あ、お隣さんだ。どんな人だろうね。」
華はミミに話しかけるがもちろんミミは知らん顔である。

「いい人だといいな。
同じ年位のご夫婦で奥さんと仲良くなって…一緒にお茶飲んだりしてさ。」

暫くすると挨拶に来た。

「隣に越してきた海藤と申します。」

挨拶に来たのは夫婦では無くて
華と年の変わらない男だった。

その男は頭にタオルを巻いて
グレーのTシャツとダメージデニムを履いていた。

見るからに鍛えてるその身体を見て華は少し緊張した。

長い手脚と整った顔が見るからにモテそうで
華のもっとも苦手なイケメンと呼ばれる枠に間違いなく入る。

「あ、秋島です。宜しくおねがいします。」

「引っ越しで少し煩いかもしれません。
ご迷惑かけます。」

男は菓子折を華に渡した。

男の指が華の指に触れて華は少し身構えた。

「あの…」

「はい?」

「この辺全然分かんないんで少し教えて貰えませんか?」

「何でしょう?」

「出前…取りたいんですが…」

「あぁ、私、あんまり出前は取らなくて…
ピザ屋さんなら確かチラシが…」

華は奥から先週ポストに入っていたチラシを探して男に渡した。

「ありがとうございます。
あと…コンビニ近くにありますか?」

「この前の道を左に曲がって坂を降りるとすぐあります。」

コンビニの場所も確めずにこの部屋に決めたのかと華は少し呆れて男を見た。

それにしても見れば見るほどいい男だ。

しかも夫以外の男と話すのはよく行くスーパーの店員以外ではホントに久しぶりだ。

「わかりました。また何かわかんないことがあったら聞いてもいいですか?」

「あ…はい。」

男は爽やかな笑顔で華にお礼を言った。

「あの、電話番号聞いてもいいですか?」

「え?」

「何か聞きたい事があったらいちいち部屋まで訪ねるのは申し訳無いので…」

華はちょっと警戒したが、
家の電話番号位教えてもいいかと男に電話番号を言った。

しかし、華は家の電話にはほとんど出なかった。
昼にかかってくる電話はほとんどがセールスだからだ。

「あの、電話じゃなくてSNSでいいですか?
出ないことが多いから電話じゃない方が…」

「わかりました。」

SNSを交換すると帰ってすぐ連絡が来た。

"海藤翔琉(カイトウカケル)といいます。
これから宜しくお願いします"

華は何となく嬉しくなった。

"秋島華(アキシマハナ)です。
何か分からないことがあったらお気軽にご連絡下さい"

そして翔琉からは"宜しくお願いします"と書かれたスタンプが届いた。

それがキッカケだった。

男はたまに華に連絡をくれた。

クリーニング屋はどこがいいかとか
ガソリンスタンドはどこが一番安いかとか
ほとんどがこの辺りの場所についての内容だった。

ある日、翔琉から
"母から桃が送られて来て食べきれないので貰ってくれませんか?"
というメッセージが届いた。

桃は華の大好物だ。

"嬉しい!取りに伺います。いまはご自宅ですか?"
"はい、お待ちしてます"

華は何の躊躇いもなく一人暮らしの男の部屋を訪ねていた。

SNSのやり取りで妙な親近感が生まれていたし
華自身が既に男と何かあるような女でも無いと思っていたからだ。

「華さん、良かったらお茶でも飲んで行きませんか?」

「え?でも…」

「越してきたばっかりで華さんしか友達が居なくて…」

「友達?」

「もう友達みたいなもんでしょ?」

翔琉の人懐こい笑顔が華を安心させる。

「そうだね。」

そして華は翔琉の部屋でお茶をご馳走になった。

そして華と翔琉はお互いの家を頻繁に行き来するようになった。

翔琉は漫画を描いて居る人だった。

華は全く漫画を読まないので翔琉がどんな物を描いているが知らなかったが
本名では描いて無いと言っていた。

内容については恥ずかしいから教えたくないと言っていた。

たまに原稿を取りに人が来ていて締め切りの前になると華が翔琉の代わりに買い物をしてきてあげたりする。

その日も華は買い物袋を持って翔琉の部屋を訪ねた。

「ありがとう。悪いんだけど冷蔵庫に入れて貰える?」

「うん。」

華は部屋に上がり、冷蔵庫に買い物してきた物を詰めた。

「じゃ、帰るね。」

「華さん、悪いんだけどついでにコーヒーもいいかな?」

華はコーヒーを淹れて翔琉の所に持っていった。

その時、華が見た翔琉の原稿は
官能的な物で華は顔を赤らめた。

「あ、ビックリした?こういうの描いてるって言ったら軽蔑するよな?」

「そうじゃないけど…」

「読んでみる?」

「ううん、いい。」

「だよね。」

「じゃ、仕事の邪魔しちゃ悪いから帰るね。」

華はその場を早く立ち去りたかった。

翔琉の男の部分を見た気がしたからだ。

翔琉の頭の中はいつもああいう事を考えている気がして
そんな風に思うと何となく会ってはいけない気持ちになった。

それなのに一瞬見たあの絵が華の頭から離れなかった。
翔琉の描く女性はすごく魅力的だったから。

次の日、原稿を描き上がった翔琉から連絡が来た。

"お世話になったお礼にご馳走するから部屋に来て"

華は暫く迷っていた。

でも突然断るのも気が引けて華は翔琉の部屋を訪ねた。

「上がって、カレー作ったんだ。」

「うん。」

華の様子が少し変わった事に翔琉は気がついた。

「やっぱり軽蔑したんだ?
あんな漫画を描いてるって…

ホントはもっと違ったのを描いてたんだ。
でも…オレには物語を作る才能が無くてね。

絵は褒められるけど話が面白くないって…

結局絵だけを見込まれて原作者は別に居て、オレはそれを絵にする仕事をいくつかもらってるってわけ。

今は官能的な体験談を絵にしてる。

華さんが決して読まないような男性向けのエロ雑誌だよ。

でもこれがオレの仕事。」

華は翔琉を少しだけ軽蔑したことを申し訳ないと思った。

みんな色んな夢を持ってるけど…
努力だけじゃどうにもならないことがある。

漫画家を目指す人なら映画化やアニメ化されるような大作を一度は夢見るだろうと思った。

でもそんな漫画家になれる人はホントに一握りで
漫画家にさえなれない人が沢山居るのが現実なのだ。

「でも漫画を描けるだけでも幸せだよね。」

「そうだね。
どんな絵でもそれで食っていけるだけオレは幸せだと思ってる。
でもさすがに今回のはちょっとね、人にはあまり話せないって言うか…。
オレ自身は決して恥ずかしいとは思ってないけどやっぱり親には見せられないかな。

華さんにもね。」

「でも綺麗だった。
綺麗な絵だった。
イヤらしいって言うよりドキッとした。
恥ずかしかったけど…もっと見てみたいって思ったくらい。」

「見てみる?オレの漫画。」

「え?」

「あ、違うよ。昨日じゃなくてボツになったヤツだけど。」

その漫画は一人の男が旅をしながら色んな人に出逢う話だった。

内容は確かにどこかにあるような話だったが
翔琉の描く人にはどこか魅力がある。

特に出てくる女の人は平凡な人なのにいつも光ってみえる。

「つまらないよね。」

「ううん、海藤さんの描く女の人はすごく素敵だね。」

「じゃあ、華さんを描いてあげる。」

「ホントに?」

翔琉は華を正面に座らせ華の絵を描いた。

「華さん、ちょっと笑ってみて。」

華が少しひきつった笑顔をすると翔琉は笑った。

「そんなに緊張しないで自然に…」

華は少し緊張が解れていい笑顔を見せた。

「うん、可愛い。華さんは笑顔が似合う。」

華は人に褒められたことが嬉しかった。

最近は誰にも褒められたことなど無い。

夫は何をしても気がつかないし、
華に興味も無いみたいで会話だって最低限の事だけだ。

出来上がった絵を見て華はホントに嬉しかった。

「これがアタシ?」

「うん、華さん。でも実物のがもっと素敵だ。」

「ありがとう。」

華はその絵を持ち帰って作業机の前に貼った。

そして注文の入っていたピアスを作った。

ターコイズの天然石と珊瑚と淡水パールをワイヤーで繋いで
貝殻のメタルパーツを付けるだけの簡単な作業だけど
いつもより綺麗に出来た気がした。

出来上がったピアスを翔琉の描いた自分の絵の耳に合わせてみる。

「ミミ、アタシはこんなに素敵かな?」

ミミは小さい声でニャーと鳴いた。

華にはそれがミミの返事に聞こえるくらい浮かれていた。

華にとって翔琉の存在はちょっとした神様の贈り物みたいに思えた。

その夜、夫がいつも通りに帰ってきた。

「おかえりなさい。」

笑顔で迎えられて夫の健太郎は少し戸惑った。

「華、何か良いことでもあった?」

「ううん、何で?」

「久しぶりに楽しそうな顔してるから。」

「いつもつまんなそう?」

「てゆーかいつも笑わないだろ?」

「そうだった?」

そういえば華はいつのまにか自分が笑顔を忘れてた事を思い出した。

「そうだね。笑ってなかったかな。」

「何か良いことがあったんだろ?」

「うーん、このお魚がすごく安く買えたからかな?」

華は嘘をついた。

なぜか分からないけど隣に住む翔琉の事を夫に話したくなかった。

「先に風呂に入る。」

「はーい。」

華と夫は去年から寝室も別だった。

華は作業部屋にベッドを入れてそこで眠っている。
夫は華の部屋には入ってこない。

華は翔琉の描いた絵を見ながら眠りについた。

隣に翔琉が居ると思うと何となく幸せな気分になった。

そんな自分に気がついて華は首を振った。

「アタシ…何考えてるんだろう?どうかしてる。
あの人は友達なんだから。」

華はミミを抱きしめた。

何となく落ち着かなくて眠れない夜だった。
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