少年たちと少女≒蝶と蜘蛛
杏里、許して
半分以上落ちてしまった椿の花のトンネルをくぐりながら、透也は瞳を伏せた。白と赤の花が、生きたまま首を落としている。 
朝日は木々の隙間からこぼれ、小さな鳥の鳴き声が聞こえていた。透也の唇から漏れる白いため息が空へと昇っていく。
 心が熱い。押さえ切れないこの嫉妬は、誰に向かっているのだろう。俺は誰を思って嘆いているのだろう。わからない。知りたくない。そして昨日の光景を思い出す。その繰り返しだ。まるでメビウスの輪。
 杏里は昨日、俺の存在に気づいていたのだろうか。昨日の夕日がまぶたの裏に焼きついて、まだ目を細めたくなるほど眩しい。あの、小さな光の洪水。
 透也は立ち止まり、咲いている赤と白の椿を見つめた。そしてその白い方に口をつけた。
 道草をしすぎたせいか、透也がグラウンドについた時にはもう、陸上部の朝練は終わっていた。
・・・今日は杏里に会いたくない。
今まで差し込んでいた弱い光を、薄灰色の雲がさえぎっていく。今の時間―教師は職員会議中、生徒は朝自習の真っ最中―に人通りが全くない、新校舎から技術室へと続く廊下の窓を開け、透也は軽い身のこなしで校舎の中に滑り込んだ。薄暗い廊下を通り、一年生の昇降口の脇の階段を上った。
 一階、二階、三階、四階。図書館には予想通り人影はない。透也は乱れた息を整えながら古い引き戸を開け、中へ入った。
左右にある大きな窓の右側からは小さな山、左側からは太平洋が見える。透也は海側の窓に近づいた。白く煙った波が、遠くかすんで見えた。灰色の雨雲が空を徐々に覆っていく。
窓ガラスに手を触れると、熱い手とは正反対の冷たさが、透也を拒絶しているように感じられる。窓に映った自分は、何て不安そうなまなざしをしているのだろう。 
窓から手を離すと、本棚を背に座り込んだ。
まだ少し鼓動が早く、手がジンジンとしびれていた。上を向くと、古い本の、かび臭いにおいが鼻についた。
 もうホームルームの始まる頃だ。ちら、と壁掛け時計を見て透也は思った。俺は何をしているのだろう?このまま逃げ続けるわけにはいかないのに。
だって、どうしても昨日のことを思い出してしまう。「どうしてあの場所に二人きりでいたの?約束をしていたの?偶然会ったの?」・・・聞けるわけない。
 降り始めた雨粒が、厚い窓ガラスを叩いた。透也は人の気配を感じて耳を澄ませた。教師だろうか。
階段を昇るゆっくりとした足音が近づいてくる。木造の引き戸が開く音。透也は隠れようともせずに、現れた人物を見つめた。
・・・鈴音はいつもの無表情な目で透也を見つけた。小さなデジャヴ。眩暈にも似たその感覚が、透也から立ち上がらせる意思を奪った。
「授業、始まっているんだろ」
「とっくに」
 昨日の光景と、目の前にいる鈴音が重なって見える。ドクドクと血管が大きく脈打つのを感じた。
・・・コントロールできない。
「杏里と、付き合ってるのか?」
 透也は、鈴音の苺のように赤い唇を見つめた。
「別に」
「じゃあ、」
 言いかけて躊躇った。
「昨日、見ていたんでしょう?」
 透也はその言葉を聞いて立ち上がった。
「杏里のことが好きなのか?」
「さあ」
 鈴音の形のいい口元が歪む。透也は鈴音を強くにらんだ。雨の降る音だけが世界の音の全てのような、不思議な空間。
「もうすぐ杏里がここに来る」
「何で」
「さあ」
 カッと、透也の頭に血が上った。体中が熱くなっていくのを肌で感じた。
「どうして俺たちの前に、そんな風に現れるんだよ」
 透也は気づいていない。杏里が階段を上りきったことを。
「どうして、」
 透也は鈴音に近づいた。
「私は蝶なんかじゃない」
 鈴音は、透也の目を恐れもせずに見つめた。
「俺はどうすればいいんだよ」
 そう言って透也は鈴音に顔を近づけた。触れたかった。ただそれだけの理由で。俺は鈴音に惹かれている。抗いようのない、強い力で。
杏里が音もたてずに引き戸を開けたことを、透也は知らない。もう何もかもが壊れてしまったことを。そしてもう、決して元に戻りはしないということを。

 雨が降った次の日は学校へ行くのが楽しみだった。小高い丘の上にある校舎の、下方にある森の木々から水蒸気が立ち上り、校舎がまるで雲の上にあるかのように見えるからだ。こんな日は、いつもより少し早く家を出る。
 朝焼け、という言葉が好きだった。本当に、空が焼けて溶け出したような色をしているから。
 白い息を弾ませて、透也は森の中へ入った。野生のままの桜の巨木が、小さな蕾をつけているのを見つけた。どうして今まで気がつかなかったのだろう。でも、綺麗に咲いた花も、春一番の風に吹かれて全て散ってしまうことを思うと、少し虚しい気持ちになる。
 遠く遠く、細い鳥の声が響く。弱い陽の光。薄白い霧が立ち上り、地面の上を歩いているような感じがしない。
 とうとう昨日は、一歩も教室に入らなかった。あの後すぐに学校を出てしまった。鈴音は、図書館に杏里が来ると言ったのに、結局杏里は来なかった。
どんな顔をして会えばいい?普通に?何もおびえることなんてないから?でも、もしかしたら杏里は何も知らないかもしれない。俺の勝手な勘違いかもしれない。・・・じゃあどうして俺が学校休んだのに何も連絡をくれない?怒ってる?聞きたいけど、多分聞けない。俺はいつからこんなに臆病者になったのだろう。
杏里が誰を好きだろうと、鈴音が誰を好きだろうと、俺には関係ない。でも、黒い蝶が目の前にちらついて離れない。誰かあいつを殺してくれたらいいのに。
原生林に近いこの森には、入ろうとする人間は皆無に等しい。熊が出るとか蛇が出るとか幽霊が出るとか、そんなありがちな噂話もない。切り開こうとする人もいない。この森自体を、誰もが忘れてしまったかのようだ。
 名も知らない小さな白い花が咲き、太さも長さもばらばらな木々が生い茂り、椿は容赦なく花を散らす。
この森を通ると、校門に続く坂を登っていくよりも十分は余計にかかる。学校の周りの崖を、ぐるぐると旋回するように登るからだ。だから急な、かなり角度のある崖も何ヶ所かあり、透也も足を滑らせそうになって冷や冷やしたことが何度もある。そういう場所に限って、苔がびっしり生えた木の根がせり出していたりするのだ。
 もうすぐいつもの校舎の裏につく、と言う所まで来て、透也は懐かしいタバコの匂いに顔を上げた。
「杏里」
 透也はつぶやき、表情を無くした。
「透也」
 悲しそうな、でも半分すねたような顔をして杏里は立っていた。無造作に伸びた髪の毛で、整った顔立ちで。途端に透也は、とてつもなく悪い嘘がばれたような気がして、思わずきびすを返した。
「透也!」
 杏里が背後で叫んだ。透也はもと来た道を駆け戻る。杏里が追って来るのがわかる。
「約束を守れ、透也」
 約束?乾いた落ち葉が、二人の足元で次々と壊れてゆく。ばさばさと、鳥の飛び立つ音がした。
透也は走った。全てから逃げるように。その道の先に、蝶が見えた。いつかの黒アゲハだ。蝶は透也を通り抜け、ふわふわと後方にいる杏里の方へと漂っていく。透也はなぜか、霧にも似た冷たい何かを感じて振り返った。
 透也は声にならない悲鳴をあげた。黒い蝶が揺れている。スローモーションのように、髪の毛が舞い上がる。杏里の、透也を呼ぶ声、なぎ倒されていく小さな枝、何かにあたった鈍い音。透也は恐怖に凍りついた。
 蝶が舞う。幻想のように蝶が舞う。
 透也はしばらくの間立ちすくんでいたが、はっと我に返り、叫んだ。
「杏里!」
 叫べば、夢から覚めると思ったのかもしれない。透也は名前を叫び続けながら、恐る恐る崖の下を覗き込んだ。硬い巨木の根元に杏里が倒れているのを見つけた。崖をかけ下り、杏里に近寄った。
「杏里」
 後頭部から血が噴出すように流れ、巨木がペンキをぶちまけられたように色づいている。
透也は杏里の肩を揺らした。血は、杏里のYシャツを真紅に染めていく。透也の両の目から涙がとめどなく流れ落ちても、杏里は目を開けない。杏里の血で透也の手が、顔が、深い紅に濡れていく。
何度も何度も杏里の名を呼ぶ透也を、蝶が見ている。濡れ葉色の羽を羽ばたかせ、じっと見ている。
杏里の傍らには、白い水仙の花。花はつぶやく。約束を守りなさい、と。あなたの約束を守りなさい、と。
あの日から、罪深い森は立ち入りを禁じられ、透也は話すことをしなくなった。いつものように屋上へ行き、タバコを吸う透也のもとに、鈴音がふらりと現れた。透也は虚ろな視線を上げ、寄りかかっているフェンスをきしませた。
 以前は太陽のようだったその瞳の輝きは失せ、灰色の目は、それでも大切そうに鈴音を見ている。鈴音の首筋がもの欲しそうに揺れた。
「あなたの約束を守りなさい」
 透也の耳に、いつかの鈴音の言葉が響く。濁ったタバコの煙が、突き抜けるような青空に消えていく。
 鈴音が微笑む。まるで永遠のようだ。透也は眩暈を覚え、くわえていたタバコを床に落とした。そして言った。
「お前は蝶じゃない。蝶は俺自身だった」
「そんなこと、今気づいたの」
 鈴音の石榴の唇が楽しげに開く。生ぬるい風が、屋上を通り抜けた。
「お前は蜘蛛だった。捕らえられたのは俺だった」
 杏里、俺は杏里の約束を破ってしまった。だから杏里は俺をこんなにも苦しめる。
許して、杏里。
「杏里」
 透也の目から透明な水が流れ落ちる。ガラス細工のような涙が。
 鈴音の上質なビロードの髪が風に流れ、頬は薄赤に染まっている。
 光の粒子が、銀のフェンスに反射して金色に光った。
「杏里、許して」
 黒いアゲハは飛んでいった。
 少年は羽を広げ、空へと溶けた。フェンスは少しきしんでその音を止めた。何もなかったように。
金と銀の光が水のように飛び散り、牡丹色の風が吹いた。微かな羽音とともに、朱銀の燐粉が静かに辺りに漂っていた。

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