memory refusal,memory violence
第一章:変わる人

上手な諫め方

 送葉に別れを告げて数ヶ月。僕はなんとか立ち直りつつあった。春学期の講義はギリギリ単位を確保できたし、夏季休校の間には地元に帰省したり、大学の友達とキャンプをしたり、観光をしたりもした。新しいアルバイトも始めた。気が乗らない時もあったが、誘われたらできる限り顔を出すように心がけた。僕の事を心配してくれた人にこれ以上の心配を掛けたくはない。今では僕なりのやり方で僕なりの普通を手にできつつある。送葉がいた時の普通、送葉と出会う前の普通とも違う、新しい普通。そこに送葉がいないことは悲しいことだけれど、あの日から僕はそれなりの折り合いをつけられているつもりだ。

 あの日以来、僕は送葉の所に行っていない。間にお盆などもあったけれど、あえて行かなかった。自分の祖先のお墓参りがあるなどという理由もあったが、そんなことは大した理由ではない。上手く言えないけれど、自分のためにそうした方がいいような気がした。こんなことを言ってしまえば語弊が生まれてしまうかもしれないが、死んでしまった人間のことを気にすることより、自分を大事にしたかった。送葉の所には自分が本当に辛くなった時に行けばいい。今はそれでいいと思っている。何度も送葉のところに出向いているようでは前に進めない。前に進む必要があるのか、一体前に進んでどこに向かうのかは僕にもうまく想像できない。それでも、その場にいつまでも留まっているようではきっと人間は腐ってしまう。

 無論、送葉の事を忘れようとしているわけではない。送葉と一緒に大学のキャンパス内で撮った唯一の写真は写真立てに入れて部屋に置いているし、送葉に貰ったブックカバーは今も愛用している。僕は今でも送葉を想っている。今は誰かと恋仲になる気もないし、新しい恋愛を始める気もない。これからずっとそうなのかもしれないし、どこかで変化があるかもしれない。それは僕にも今は分からない。ただ、送葉が死んでしまったらといって送葉と僕がもう何でもない関係になってしまったというわけでは決してない。僕は今も送葉の恋人だ。

 折り合いはつけたとは言っているが、こんなことを考えている僕はやっぱりまだ送葉の事を引きずっているのだろうか。送葉の事を考えるとこんなことを思うことが未だにある。

 でも、そんなことを思っても今の僕は以前のように頭を抱えたりしない。大切な人が死んでしまって悲しくなって、苦しくなって、それでも少しずつ立ち直ろうとするけど、ふと浮かんでしまう事実にまた悲しくなる。きっとこれは普通の事なんだ。人はこういう感情を繰り返して強くなれるんだ。最近はこう思うようになった。いや、そう思うようにした。これがこの数ヶ月で僕が自分なりに編み出した自分を保つための処世術だ。こう考えると気持ちが安らぎはせずとも、幾分楽になる。それに、僕にはそれでもでもダメだった時に行くことができる心の拠り所もある。

 いつまでも止まっていてはいられない。どれだけ待っても送葉が再び僕の前に現れることは絶対にないのだから。
 
 身支度をして送葉とのツーショット写真の前で目を瞑りながら手を合わせる。これがここ最近の日課だ。今日も送葉が存在しない一日が始まる。「いってきます」と写真に向かって一言いってから僕は家を出た。今日から秋学期だ。
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