僕は惑う、坩堝の中で
Prologueーわからなくなるー
「好きです、どうか、私と一緒にいてください。」
 両手を胸の前で組み、頬を赤らめながら小さな声で彼女はそういった。風で背中まである長めの髪がゆらゆらとなびいている。周りにいたはずの人たちがいつの間にか消えている、気づかなかったのは彼だけだろうか、それほど彼女のことばかり見ていたのだろうか。そのたった一言で、彼の頭は真っ白になった。
 なんで、という疑問は浮かばなかった、ただうれしさだけが満ちている。 彼もまた、彼女のことが好きだったのだろう。
「…ありがとう。僕も君のことが、好きだよ。気が早いかもしれないけど、ずっと一緒にいてね。」
「…はい!」
ひまわりの如く咲いた笑顔、彼はそのかわいらしさに心を奪われた。この笑顔を見るために頑張る、そのような目的が見つかっただけでも幸福だった。ここから始まる彼女と彼の関係はより深く、明るいものとなっていくだろう。二人はそんな未来を夢見て、しばらく見つめあっていた。
―――ガサッ
 近くの茂みで音がした。犬か猫だろうかと彼がそちらを振り向く頃には、少し離れたところを走る一人の女の子を姿が目に入った。その顔は恐怖だろうか、何かへの恐れを抱いているような表情に染まっていた。涙をこらえながら、必死の表情で走っている。その様子を見て、彼の顔から笑顔が消えた。
「…?」
先ほどから彼のほうばかりを見つめていた彼女は不思議に思い、どうかしたのかと問うた。だが、かれはしばらく黙ったままであった。その顔は彼女のほうではなく、もはやはるか遠くに見える女の子のほうへ向けられていた。
 もう夕方だというのに、彼らを彩る夕焼けの輝きは見えない。空には大きな雨雲が浮かんでいる。彼らの一見めでたく見えた瞬間はすぐに大きな暗闇へと変わった。雲が太陽の輝きを隠すように、彼らの輝きは隠された。確かにうれしい出来事なのに、どこかよどんでいる。風がびゅっと彼らの間を縫うように吹き抜けた。彼女はとっさに髪を押さえ、彼は片手で顔を覆った。もう雨が降り始めそうだ。。

 走り続けた彼女の目元は真赤に腫れていた。ひどく惨めな気持ちでいっぱいだった。それもそうだろう。ずっと好きだった彼が、他の女の告白を受け入れる瞬間を目撃したのだ。彼女は自分の家まで走り続けた。家の前にいた一人の男を突き飛ばし、家に入り、自分の部屋に続く階段を駆け上った。そのままベットに倒れ、声を上げて泣いた。彼女を励ます人は一人もいなかった。
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