榎本氏

第三節 雪

 満田亀造氏には、阿部嶋麻呂氏の息女・小春の上との間に、嫡男・亀仁殿が設けられていた。八〇二年四月十一日に行われた、徳川龍之介氏主宰の歌会に、満田亀仁氏も出席していたが、亀仁殿ご自身は、父君とは違い、あまり女君との交際範囲は広くなかった。徳川家主催の歌会は、古くからの友人同士であった、榎本英樹氏・徳川龍之介氏・満田亀造氏の三名の間で、ほとんど半年に一度くらいは、催されていたものであった。
時に、桓武天皇の第一皇子に、泉の上、という姫宮がおいでになり、亀仁殿の下に降嫁されてきていた。八〇五年、亀仁殿は、泉の上との間に、雪姫殿、という、藤姫の再来かと思われるような、姫君を設けた。
榎本英樹氏は、八〇二年十月一日に行われた歌会以降、徳川龍之介氏には、歌会には広く地方からも、和歌に造詣の深い人々を招くように薦めていた。そのため、京の都以外の地方からも数多く、歌詠みの好きな人々が集まってきていた。好色な橘嶋田麻呂殿にとっても、多くの女君たちと、親交を深めることのできる場であった。七九六年に、仁姫殿のお産みになった太郎君は、雪姫の生まれた八〇五年には九歳となり、既に榎本英樹氏から武術の鍛錬を受けて、二年程度が経とうとしていた。橘嶋田麻呂殿と仁姫との間に設けられた若君のうち、一番末の若君は、九人目であったが、つい先日乳離れしたばかりであった。嶋田麻呂殿と仁姫の若君は、亡くなった一番上の若君を除くと全部で九人、今年九歳になった太郎君は、下に八人もの弟君たちがおいでになった。榎本英樹氏は、この若君たちを皆、武術の達人に育てたい、とお考えになった。九人の若君たちを、三人ずつ順番に鍛えていくお考えであった。まずは、九歳、八歳、七歳の、太郎君、次郎君、三郎君から、ご指導になった。九人を、将来にわたって三人ずつ教育していき、三人をそれぞれ、榎本家、徳川家、満田家の守衛にするご計画をお持ちになっていた。御三家をそれぞれ、四天王に守らせるお考えでいらっしゃる。四天王のうちの一人は、それぞれの家の末子に当たらせるのがよい、とされた。若君が少ない家は、若君の多い家で、補充をするお考えである。
満田亀造氏は、自分の子息らが、歌会などで異性とも交わりながら、自分の伴侶を見つけてくれることを夢見ていたが、先に節紫姫殿が、榎本英則氏に嫁がれたように、天皇家にも、地方豪族などにも、好感を持たれている榎本家へ、雪姫は嫁がせたい、と考えるよになった。ある日、亀造氏は英樹氏の寝殿をお訪ねになった。榎本英樹・徳川龍之介・満田亀造の三氏は、歌会があるとないとに関わらず、よく三氏で集まっていた。
「英樹殿。私は、今度生まれた雪姫を、何としても榎本家に嫁がせたいのです。」
「おやおや。雪姫はまだ生まれたばかりですぞ。」
「伴侶は、早いうちに決めるのが一番でしょう。」
「そんなことはありませんよ。親がこの人は良い、と思っても、本人が嫌だという場合もありえますし、逆に本人が良いと思う人でも、親が嫌う場合もありますよ。問題は、その人が自分に合った伴侶を見つけられるか、だと思うのです。私は、自分の子供に対してであれば、自分の伴侶は焦らずに、決めさせてやりたいのです。」
「伴侶は、本人にとっても、親にとっても、どうでもよいような類のことではありません。私は、孫娘の嫁ぎ先は、榎本家以外には考えられないのです。」
「いずれにしても、雪姫がある程度成人しないと無理ですよ。」
「しかし、われわれ三人も、既に死出の旅の心配をするタイミングになってきている筈ですよ。」
「分かりました。でも、今雪姫にどうにかはできないでしょう。それに、英則にも女君一人以外、まだ子がおりません。今度徳川殿も一緒に、三人で集まりましょう。」
翌日、榎本・徳川・満田の三氏は、早速榎本家の寝殿に集まり、自身の遺言を決めることにされた。三氏は、既に五十四歳であった。三氏は、ご自身の遺言を確認し合ったが、徳川・満田両氏が、榎本英樹氏の遺言状を良し、とされ、三氏で榎本氏の遺言状に賛同されることとなった。その内容は、以下の通りである。

「一、榎本家・徳川家・満田家の三家は、常に協力しあい、後世に渡って、その協力関係を維持し、緊急事態に備えること。
「二、右一、の三氏においては、家督は必ず北方が一番最初に設けた男君に相続させるべきこと。
「三、右二、の三氏はそれぞれ、その家臣の代に至るまで、協力関係を維持し合うこと。
右にあたり、榎本家は、千葉氏と畠山氏を家臣とすること。徳川家は、茨木氏と大庭氏とし、満田家は、石川氏と梶原氏とする。
「四、橘嶋田麻呂殿とわが娘・仁姫との間に生まれた九人の若君は、まず三人ずつに分け、榎本・徳川・満田の三家の守護に当たるものとする。三家はそれぞれ四天王に守らせるが、三人に加わる一人は、三家それぞれの末子の男子である。
「五、現在半年ごとに行われている徳川家主催の歌会は、榎本英樹・徳川龍之介・満田亀造の三氏の死後も、その子供らが永久に継続して、開催していくものとする。その際、主催者も永久に同じ家にするかどうかは、今後の三家での検討事項とする。いずれにしても、歌会そのものは、京の都のみでなく、広く日本国中から、参加者を募るものとする。また、身分で参加者を差別せず、帝でも摂関家でも、地方豪族でも、歌詠みの好きな人々が、広く集える場とすること。
六、 榎本家の男子は悉く武術に精進し、
女子は舞と琴の名手であること。」

榎本英則氏は、北方・節紫姫殿と毎晩寝所で楽しくお過ごしになっていた。八〇五年には、榎本英則氏と節紫姫殿との間に、一の君がお生まれになった。
八〇六年、平城天皇の御代となり、右大臣も、藤原内麻呂に交代された。内麻呂には、二人の息女があった。健子と康子である。健子は、平城天皇に嫁ぎ、皇后として内親王を一人設けていた。
英則殿と節紫姫との間に、太郎君がお生まれになったのは、八〇七年のことであった。お二人の間に、若君がお生まれになった知らせをお受けになった時、榎本英樹氏のお喜びは、尋常ではなかった。
「英則。満田家には、実は、そなたたちの一の君と丁度同い年の姫がいてのう。雪姫と申すそうだ。満田家の姫君も、榎本家の嫡男に嫁ぐことを、ご希望だそうだ。」
「お父様。そのようなご冗談を。」
「冗談ではないぞ。亀造氏自ら、私に直接仰せられたのだ。太郎お雪姫が成人するまで、私が生きていなければ、この二人の婚儀は、そなたが取り仕切るように。」

八〇九年には、嵯峨天皇の御代となった。同年、榎本英則氏と節紫姫殿との間には、二の君がお生まれになった。
八一〇年、榎本英樹氏の一の君であった、仁姫が三十八歳で亡くなられた。仁姫は、八〇四年に九人目の男君をお産みになった後、八〇五年からは、橘嶋田麻呂殿との間に、六人もの姫君を産み続けていた。八一〇年、六人目の姫君をお産みになると、お子を侍女に渡した途端、床の上にお倒れてになって、母君・藤姫のように、辞世の句をお詠みになる暇もなかった。
八一一年、節紫姫殿が、榎本英則氏の次郎君をお産みになったが、還暦を迎えられた榎本英樹氏は、体力が弱まり、ご自身の死期を悟られた。病床に英則殿をお呼びになると、次のような辞世の句をお詠みになった。

 託された
  子と孫のこと
 合わせてぞ
  家のこと皆
  則に任せむ
(あなたから詫された子供たちと、家のこと一切、私も死んだら、全て英則に任せることにした。)

英樹氏は、ご自身で短冊に歌をお書きになったが、一緒にもう一枚の短冊をお出しになり、文の類などと合わせて、少し分厚くなった人纏まりを、英則殿に纏めてお渡しになった。
「英則。」
「はい。」
「節紫姫が子供を産んだばかりだというのに、申し訳ない。」
「いえ、何をおっしゃいます、お父様。」
「今度生まれたのは、若君だったそうだな。」
「はい。」
「そなたも、二人目の若君を授かるのか。言うことはないな。」
「ありがとうございます。」
「英則。」
「はい。」
「こちらの歌は、お母様の辞世の句だ。今の私の歌は、このお母様の歌に返したものだ。」
英則殿は、母君・藤姫の辞世の句をお読みになった。
 
 あの世でも
  背の君のこと
 思いつつ
  子と孫たちの
  ことを詫さむ
(愛しい背の君であるあなた以外に、子供や孫のことを託せるお方はありませぬ。)

「英則。私はできれば、この歌に、お母様がまだご存命のうちに、返したかった。」
「お母様は、十分喜んでおいでの筈です、お父様。お母様は、そのご生涯の中で、ずっと、お父様に大切にされておられたのですから。」
「英則。お母様の辞世の句も一緒に、そなたに預ける。」
そう言われると、榎本英樹氏は、藤姫の辞世の句と、ご自身の辞世の句に、遺言状を合わせて、全て英則殿に手渡された後、息を引き取られた。
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