オオカミ専務との秘めごと
通勤電車を降り、改札を出てすぐ、会社まで全力疾走をする。
駅前に建ち並ぶオフィスビルの中の一つ、八階建ての白いビルが私の勤務先『(株)オオガミフーズ』だ。
超速で守衛に挨拶をして、エントランスにある機械にIDカードをかざして閉まる寸前のエレベーターに飛び乗った。
始業時間ぎりぎりに間に合い、崩れるように自席に座ると、隣にいる同期社員の三倉佐奈が声をかけてきた。
「おはよ、菜緒。いつも早いのに遅刻寸前なんて珍しいじゃない」
「んーちょっとね、朝からいろいろあって、遅くなっちゃった」
佐奈は私が新聞配達をしていることを知らない。
副業は禁止で、ばれたらクビになるかもしれないのだ。
そうなったら路頭に迷ってしまうから、誰にも秘密にしている。
「あー、分かった!オトコが離してくれなかったんでしょ。そっか、とうとう菜緒にも春がきたかー」
今日は唇が艶っぽいよ?と、自身の艶々でぷっくりの唇を指差しながらにこーっと笑う。
「うそ、唇が!?そんなはずないよ」
思わず唇を隠すと、佐奈はますます嬉しそうに笑った。
その反対に、私は苦々しい顔になる。
だって、頭の隅に追いやっていたはずの、ヤクザ男のキスをありありと思い出してしまったから。
あんなのは本当のキスじゃない。事故だ。
キスというものは、好きな人と愛情をこめてするものなんだから。
だから、あれは、ファーストキスではない!断じて!