初恋
第三十七話 心の痛み

 病室に入る前、沙織は修吾の腕を強く掴み足を止める。ここに来るまでの間、二人は一言も会話を交すことなく到着を迎えた。お互い何も言えなかったというのが本当のところだ。
「修吾さん……」
 沙織の小さな呼び掛けに、修吾は真っ直ぐな瞳で見つめる。沙織もしばらく修吾を見つめていたが、強く目を閉じてポツリと一言だけ言う。
「言わないで……」
 震える両手を優しく掴むと、沙織も握り返す。
「分かってるよ」
 修吾は沙織の頭を軽く撫でながら言う。病室に入ると、ちょうど手術着に着替え終えたところだったらしく、深雪は陽気な笑顔で二人を迎える。
「あらやっぱり来たのね。気を遣わせちゃって悪いわね」
「こんな大事な日に来ない訳ないでしょ。お父さんは?」
「さっきまで居たんだけどね。トイレ行ったっきりなかなか帰って来ないの。ウンコね、きっと」
 笑顔の深雪に沙織も複雑な気持ちになる。真司がトイレで泣いている姿が容易に想像できる。
「あんまり遅いから来ないかな~って思ってたけど、来てくれてホッとした。だって……」
「な、何?」
「手術後の快気祝い、決めてなかったでしょ? それが心残りだったのよ~」
 あっけらかんとした回答に沙織も毒気が抜かれる。
「あはは、お母さんらしいわ。快気祝い、私が考えとくよ」
「宜しく。あ、修吾さんもわざわざありがとね」
 修吾に話かける深雪を見て、沙織はドキッとする。
「いえ」
 修吾は一言だけ返事をして黙る。深雪は少し修吾を見つめていたが、再び沙織に話しかける。
「ところで沙織。どうなのよ?」
「えっ? どうって、何が?」
「赤子はまだ?」
「ちょっ……、もう、こんなときに。少しは真剣に……」
 深雪に抗議しようとしたところに真司が帰ってくる。
「修吾君に沙織、やっと来たか」
 修吾は会釈してベッドへの通路を開ける。
「遅くなってゴメンね」
 謝る沙織に真司は微笑む。
「いや、お陰でお母さんとゆっくり話せたからいいさ」
「そう……」
 二人の雰囲気を察して修吾は黙って病室を後にする。廊下に出ると、窓の外に見える緑に目を向ける。この病院の前には広めの公園が隣接しており、入院患者の憩いの場としても活用されているようだ。公園を見下ろすと、パジャマ姿の小さな子供が砂場でナースと戯れている。
(俺も昔、あんなふうに遊んでもらったっけか。ガキの頃はいつも泣いてばかりいたよな……)
 深雪と共に誓った夜のこと、運動会のこと、結婚報告のこと、修吾の心の中は自然と深雪との思い出が込み上げてくる。
(あのときの約束、深雪さんは忘れていなかった。何故あの公園での結婚話のとき、嘘を見破れなかったんだ。平気な顔をして結婚報告する深雪さんに俺はただムカついて、彼女が心の中で泣いていたことにも気付けなかった。俺はなんてバカなヤツだ。もしあのときの嘘に気付けていたら、違う形にしろ、想いを伝え合うことができたはず)
 公園で無邪気に駆ける子供の姿に、自分を重ね胸が苦しくなる。
(俺は一体どうしたいんだ。深雪さんの想いを知り、正直嬉しかった。だが、沙織を裏切ることはできない。俺の想いを伝えるということは、沙織のみならず深雪さんの気持ちをも傷つけることになる。深雪さんだってそんなことを望んではいない。ただ、二人を裏切らないという選択は、はからずも俺自身の心を裏切るということだ。俺が我慢すれば、心の痛みと共に想いをしまい込めば全て丸く収まる。しかし、俺はそれで本当にいいのか……)
 自分の弱さと愚かさに拳を強く握りしめた。そこへ病室のドアが開く音とともに、真司が現れる。
「お義父さん」
「追い出されてしまったよ。母娘水入らずで話したいことがあるらしい」
 苦笑いする真司に修吾も苦笑する。修吾の横に立つと真司はおもむろに口を開く。
「こんなときに何だが、実は修吾君に話しておきたいことがある。いや、正確には隠していたことになるのか」
 真司のセリフに修吾は緊張を隠せない。
「実はね、君と沙織との結婚。一番反対していたのは妻だったんだよ。君は私が表立って反対していたから知らなかったかもしれないが、私以上に反対していたのは妻だ。もちろん私も反対だったよ。しかし、私は沙織が本気で、尚且つ幸せなら相手は誰でもよいと思っていた。だが、妻は結婚ギリギリまで激しく反対していた。なんでだと思う?」
 深雪の気持ちを知ってしまった修吾にとって厳しい質問がくる。
「やはり年の差、ですか?」
「違う」
 真剣な眼差しに修吾は回答に困り唸る。
「では、君は自分の生い立ちを知っているか?」
(まさか、手紙の内容を知っている?)
「どういう意味でしょうか?」
「やはり知らないのか。しかし、手術まで時間がないから言ってしまうよ。私もさっき聞いた話なんだが、君と妻は親戚関係にあるらしい」
 
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