初恋
第五十五話 愛

 半年後、施設近くの一軒家を賃貸し、修吾と深雪は暮らしていた。この半年間で修吾の容態はどんどん悪化していったが、心は常に満たされており、笑顔が絶えることはない。主治医の見立てで臨終が近いことを知った今も、深雪に向けられているのは修吾の笑顔だ。
「俺は幸せ者だよ。こうやって愛する深雪と一緒に居られたんだから」
「私はもっと早く、もっと長く修吾と暮らしたかった。修吾が言っていたように、一緒になることだけならいつでもできた。結婚できないからと諦めた私が、あなたの人生を苦しめた。本当に悪かったと思ってる」
「謝ることはないよ。一緒になれただけで俺は幸せだよ。この半年は俺の一生の宝物だ。ありがとう、深雪……」
 感謝の言葉を述べて目を閉じた修吾が、再び目を開けることはない。しかし、その最後の最後まで、修吾の笑顔は失われることはなかった――――


――三十分後、主治医から死亡診断書を渡され見送って程なく、施設から薫が駆けつけた。
「加藤さん亡くなられたのね」
 安らかに眠る修吾を確認した薫は、泣きじゃくる背中を見て優しく話し掛ける。
「でも、加藤さん幸せだったと思うよ。愛する深雪と一緒になれて……」
 薫は少し言葉を考えて言い直す。
「いえ、それが本当は沙織ちゃんだったとしてもね」
 沙織は薫の言葉に鳴咽を漏らす。
「ホント、沙織ちゃんすごいよ。自分の気持ち押し殺して、加藤さんの為に一緒になるなんて。天国の深雪も加藤さんもきっと感謝してると思う」
「でも……、私、最後の最後まで修吾さんを騙していて、すごく申し訳なくて……」
「いいえ、胸を張っていいと思うわ。沙織ちゃんの嘘は加藤さんを幸せにした。人を幸せにする嘘なら、いくらついても大丈夫なのよ?」
「ありがとう、薫さん……」
「あ、そうそう。忘れる前にコレ」
 薫は沙織に一枚のDVDを手渡す。
「これは?」
「加藤さんからあなたへのビデオメッセージ、いやDVDメッセージか。少し前に加藤さんから頼まれてたの。内容は私にも分からないけど、確かに渡したわよ」
 家を後にする薫を見送ると、沙織は早速ディスクを再生してみる。DVDをプレイヤーに入れると自動的に再生され否応なく緊張感は増す。自分が演じた深雪に宛てた最後のメッセージ、沙織は複雑な気持ちで画面を見つめていた。
「深雪へ。この半年間、俺と居てくれてありがとう。俺はもう長くない、だから今のうちにこうして想いを形にしておこうと思う」
 痩せてはいるが、マジャマ姿の修吾が写り話し掛けてくる。沙織はそれだけでも涙が溢れそうになる。
「深雪へって今言ったけど、最後のメッセージになるだろうし、やっぱりちゃんとおまえに伝えることにするよ。沙織、おまえをたくさん傷つけた俺なんかの為に、わざわざありがとう」
 このセリフを聞いた瞬間、沙織の胸の鼓動が一気に跳ね上がる。
「どういうこと……、まさか、最初から知ってた?」
 沙織はドキドキしながら続きを見る。
「おまえが深雪さんじゃないことくらいすぐに分かったよ。声は似てたからさすがに分からなかったけど、抱きしめた感触、キスの仕方、一度は夫婦だったおまえを忘れる訳がない。最初は俺への復讐かと考えることもあったが、真剣に俺を愛する姿勢に、俺の心は癒されていった。そして、俺も心の底からおまえを愛するようになった。それと同時に、深雪さんがもうこの世にいないということもなんとなく理解できた。深雪さんが存命中で、沙織がこんな行動に出るとは思えないからな」
 深雪を演じていた自分ではなく、素の自分を愛してくれていたことを知り、沙織の頬には涙が伝う。
「でも、俺の心の中の深雪さんより、おまえの存在が大きく、俺を優しく包んでくれた。全てを捨て、人生を諦めようとしていた俺に、おまえは光りを注いでくれた。十年前、おまえの愛情に気付かず、ただ深雪さんばかりを追って傷つけたこと、今でも本当に悪いと思ってる。初恋という淡くも熱く、美化された想いに俺はずっと縛られていただけだった。遥か遠くに輝く星に憧れ、足元にある綺麗な花に気付けなかった。本当は遠く輝く星も、足元の花も同じ温かさがあるとも知らずに。恥ずかしながら、今になって初めて感じる愛情の深さに、何が大切だったのか分かった気がするよ」
 修吾の言葉一つ一つに涙が溢れ、テレビの画面をまともに見れない。
「ま、こうやって語っていたらキリないし、いろいろと言ってきたけど、最後に一番伝えたい言葉をおまえに送るよ。俺は、沙織を心から愛しています。今まで本当にありがとう」
 再生が終わる画面。沙織は畳に座り込んだまま号泣する。愛した修吾を失ったことによる涙ではなく、ずっと愛されていたことが嬉しくて涙が止まらない。布団に横たわり、穏やかな表情で眠る修吾に向かって沙織は語りかける。
「こちらこそ、今までたくさんの愛をありがとう。私も貴方の愛をずっとずっと忘れません……」
 涙を拭いて感謝の言葉を返す沙織の表情は笑顔になり、幸せそうに眠る修吾をいつまでもいつまでも見つめていた。
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