初恋
第五十六話 温かい風(沙織編)

 春、病室には温かい風が吹き込んでくる。深雪の病気が再発してから沙織はほぼ毎日のようにお見舞いに来ていた。自宅に帰っても誰もおらず、寂しい気持ちになるのを避けるという意味もある。
「ごめんなさいね、沙織」
 少し痩せこけた深雪はポツリとこぼす。
「何に謝ってるの?」
「いろいろよ。いろんなことを含めて、全て」
「ずるい謝り方」
 苦笑いする沙織に深雪も笑顔になる。
「ねぇ沙織」
「ん?」
「今日だけ、約束を破ってもいいかな?」
 沙織の脳裏には当然のように修吾のことが想い浮かぶ。
「修吾のこと?」
 頷く深雪に沙織も黙って頷く。
「修吾さん、どうしてると思う?」
「元気に暮らしてると思うよ。元々タフな人だし」
「うん、あれから十年かしら、月日が経つのは早いわね」
 懐かしむ深雪に沙織は一番考えてるであろうことをストレートに聞く。
「修吾に会いたい?」
 沙織の質問に深雪は首を振る。
「もう愛していないの?」
「愛、か。お母さんにもよく分からなくなっちゃった」
 深雪の容態が良くないことを知るだけに、気弱な言葉に胸が痛む。
「当時は本当に胸を焦がすくらい想っていたし、別れを選択したときは死にそうなくらい落ち込んだ。沙織が連れてきて、二十年ぶりに会ったときも正直愛していた。でも、沙織を傷つけて、真司さんを失い私は気がついたの。初恋という熱に酔っていただけなのかもって。酔っていただけって言うのはちょっと違うけど、姉弟愛や親子愛、そして異性愛、そんな全てが入り交じった、言葉にできない愛だった。もっと単純に割り切ることができれば楽だったのに。不器用なのねお母さんは……」
 深雪の想いに沙織は返す言葉が見つからない。
「今はただ、修吾さんが幸せであればいいと思う。お母さんが出来ることは何もないし、望みも何もないから。でも、沙織は違う。あなたには幸せになってほしい」
「大丈夫、今でも十分幸せだよ」
「修吾さんのこと、まだ愛しているんでしょ?」
 心を叩くような質問に黙り込んでしまう。
「今からでも遅くない。もう一回やり直してみて。お母さん、それだけが心残りなの」
「無理だよ……、修吾のことだからまだお母さんのこと想ってるだろうし。だいたい居場所も知らないし」
「緑海風病院。井上薫という婦長がいるから訪ねてみて。お母さんの小中時代の同級生だから」
「病院? どうして?」
「そこに修吾さんが入院してる」
 この言葉を聞いて、沙織の顔色が変わる。
「なんで修吾が! って何でお母さんがそんなことを?」
「薫から電話があったのよ。修吾さんが入院しているから会ってほしいって。もちろん断ったわ。こんな状態じゃ行けないというのもあるけど」
「修吾、どこが悪いの?」
「それは分からない。私は知らない方がいいと思ったから敢えて聞かなかった。もし、沙織の中にまだ修吾さんを愛する想いがあるのなら、会ってみて。無いのなら無理に会う必要はない」
 笑顔の深雪に沙織は言い返せない。
「人を愛するというのは単純なようで難しい。それはときに相手を、周りをも傷つけてしまうことがある。けれど自分でも止められない熱い想いが、どんな犠牲を払ってでも守りたい想いが、目の前の現実全てを飛び越えて、愛する人だけに向かう。自分の人生、命、全てを懸けても惜しくないと思える愛する人、なかなか出会えるものじゃない。お母さんが沙織と修吾さんとの結婚を反対したとき、沙織は命懸けで向かってきた。あのときの情熱は今でも覚えてる。失っても取り戻せる場所にいるのなら、迷わず戻ってほしい。戻るのには勇気がいるかもしれないけど、本当に失ってしまってからじゃ遅いの。沙織、修吾さんをお願い……」
 深雪の熱い想いを受けるも、沙織は即答できない。その戸惑う姿を見て深雪は目を閉じる。窓から吹き込む春の風は、いつまでも優しく二人を包んでいた。


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