初恋
第五十八話 お見舞い(沙織編)

 新幹線の車窓から外の景色を眺めつつ沙織は直美とのことを思い起こす。修吾に会おうと決心できたのは直美のお陰だ。もし直美に叱咤されなければ一人で動くことはできなかっただろう。帰り際、修吾のお見舞いに誘ったが、にべもない様子で断られた。
「あなた達の間に私の入る余地はない。それに、お楽しみの邪魔をしちゃ悪いでしょ」
 最後の意味深なセリフを思い出し、沙織は一人赤くなる。
(あるわけない、って思いつつも、お気に入りの下着をしている私がいる。我ながら恥ずかしい。でも、何を話せばいいんだろう。きっとお母さんの死をまだ知らないだろうし、話したらすごく落ち込むだろうな……)
 不安と期待、緊張とときめき、いろんな感情が交わったまま沙織は揺られていた――――


――三時間後、病院の前に立つと嫌が応でも緊張感が全身を包む。
「ここまで来たら当たって砕けろだ!」
 覚悟を決めると足早に自動ドアを通過して受付へ向かう。受付には恰幅のよさそうな看護婦が見て取れる。向こうも沙織に気がついたようでカウンター越しに会釈する。
「あの、井上薫さんという婦長をお願いします」
「井上薫は私ですが、どのようなご用件でしょうか?」
 いきなり本人に当たり沙織はどぎまぎする。
「あの……、修吾、いえ加藤修吾という方が入院されていると聞いてお見舞いに来たんです」
「ああ、加藤さんのお見舞い。あれ? でもそれって……」
 いぶかしげに頭を捻る薫に沙織はハッと閃く。
「失礼しました。私、結城沙織と申します。結城深雪の娘です」
 沙織のセリフに薫は納得するかのように相槌を打つ。
「なるほど、深雪の娘さんね。だから加藤さんのことを知っていたのね。ちょっと待ってて、直ぐに案内するから」
 沙織はホッと安堵の溜め息をつく。しばらくすると薫が受付室から出てくる。
「よく来てくれたわね。改めまして薫です。よろしくね沙織ちゃん」
「こちらこそよろしくお願いします」
「沙織ちゃんって、深雪に似て綺麗ね」
 いきなりの褒め殺しに沙織は赤くなる。
「照れちゃって可愛い。ところで深雪は? 一緒じゃないの?」
 その言葉に沙織の顔が歪む。
「沙織ちゃん?」
「母は、二ヶ月前に癌で亡くなりました……」
 衝撃的な事実に薫は顔を青くして言葉を失う。
「入院していたのは知っていたけど、まさかそんな……」
「だから、私は母の代わりに今日ここに来たんです」
「そうだったの。そう……」
 薫は思い悩んでいる。
「どうかされたんですか?」
「うん、ちょっとね。沙織ちゃん、加藤さんの初恋が深雪だってことは知ってるかな?」
「はい」
「加藤さん、今すごく精神的に参ってるの。だから今の状態で深雪の死なんか聞いたらどうなるか分からない」
 薫の言葉に沙織はショックを隠せない。
「修吾は、どんな病気なんですか!?」
「末期の肺ガンよ。半年持たないと思う」
「そんな……」
「それだけじゃないわ。ここに入院するきっかけになったのはトンネル工事での事故なの。手足の骨折は治ってるけど、両目は失明してる。もう治ることはないでしょうね」
 厳しい表情で話す薫に沙織はただ呆然とする。
(癌で目も見えないって、そんなのあんまりだ……)
「修吾は、自分が癌であることを知っているんですか?」
「ええ、本人の強い希望で告知してるわ。身寄りがないし、隠す意味もないでしょ? だからせめて逝く前に、初恋である深雪に会わせてあげたかった。だけどまさかこんなことになるなんて……」
 沙織の瞳からはとめどもなく涙が溢れる。
「加藤さん、相当無茶して生きて来たんだと思う。生き急いで身体を壊して、自ら追い込んでるように見えたわ。肺ガンだってちゃんと予防してれば防げたと思う。彼の身の上に何があったのかは知らないけど、切ない人生としか映らないわね」
「私が……」
「沙織ちゃん?」
「私が全部悪いんです。私が修吾を追い詰めた。私、何て取り返しの付かないことを……」
 受付の横で立ち尽くしたまま泣きじゃくる沙織に薫も困り果てる。
「ここじゃなんだから外に出ましょう」
 広い中庭が見渡せる屋上に上がると、残暑の厳しさを再確認させるかのごとく太陽がさんさんと照っている。中庭の先には水平線の彼方まで広がる蒼い海が見え、背後には緑豊かな山々が鎮座している。
「ここ景色いいでしょ。後ろは山で囲まれ目の前は広い海。落ち着いて人生に向き合うのにここの病院程うってつけの場所はない。ちょっと田舎だけどね」
 薫は努めて笑顔を見せる。
「さっき、悪いのは全て私だって沙織ちゃん言ってたけど、どういうこと? 差し支えなければ聞きたいな」
「ごめんなさい。ちょっと話せる気分じゃないので……」
「そう、残念。でも一つだけ言わせて。今の加藤さんの状況全てが沙織ちゃんのせいと言うのは絶対ない。それは断言してあげる。加藤さんって、誰かにどうこう言われて、自分の人生を決めるような人じゃない。いつも確固たる自我を持って生きてる。よく話すけど、すっごい頑固だからね」
(確かに。頑固さでは私とどっこいどっこいだった)
「沙織ちゃんが加藤さんにとってどんな人物かは知らないけど、沙織ちゃんの言動一つで自分の人生を決め、今まで生きてきたということはないはずよ。だから全て私が悪いなんて言っちゃだめ。加藤さんにも失礼よ」
「そうですね……」
「そうよ。沙織ちゃんは自分を責めすぎ。もっと肩の力抜きなさい」
 力強く背中を叩かれ全身がしゃきっとして気が楽になる。
「で、加藤さんに会う? 今見える場所にいるわよ」
「えっ!?」
 屋上を見渡すが薫と沙織以外に人がいる気配はない。
「中庭よ」
 急いで中庭を見ると、車イスに乗ったまま木陰で休んでいる修吾が目に入る。その姿はどこか元気がない。
「修吾……」
「最近めっきり口数も減って元気がないの。知り合いならまた違った反応を見せるだろうし、会って話してみてほしいんだけど」
「私では、今の修吾を元気付けられないと思います。薫さんが考えていたように、お母さんならきっと喜んでくれてたんじゃないかな……」
「じゃあ、このまま帰る?」
「それは……」
「今日を逃したら、もう会えないかもしれないわよ。さっきも言ったけど、末期癌で半年持つか持たないかの状態よ。こうしてお見舞いに来るくらいなんだから、嫌いじゃないんでしょ? うじうじしてないで行ってあげなさい。いいわね?」
 母親が娘を諭すかのように薫は沙織を説得する。
「私は仕事あるからもう戻るけど、帰るときは必ず一声掛けるのよ。いい?」
「わ、分かりました」
「上出来。じゃあ加藤さんをお願いね~」
 手を振りながら薫は颯爽と去って行く。
「う~ん、凄くパワフルな人。それはいいとして……」
 中庭を見ると相変わらず修吾は動いていない。まるで人形のようだ。
(薫さんの言うように、ここまで来て会わない訳にはいかない。でも、一体何を話せば……)
 車椅子の修吾を眺めつつ、何て声を掛けるべきか必死に考えていた。


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