初恋
第五十七話 訪問者(沙織編)

 二ヶ月後、深雪が永い眠りについてから、沙織は深雪の日記を繰り返し読み耽る日々を送っていた。日記は十年前、修吾の話を二度としないと誓った日で止まっている。

『日記を書くのは今日で最後になると思う。いや、むしろ最後にしなければならない。今日という日は私にとって区切りの日であり、新たなる人生の始まりなのだから。本来なら難しい手術を迎えた時点で役割を終えるはずだったこの日記だけど、何の因果か私はこうして生き残ってしまった。
 当初の計画では、自分勝手な想いを綴った遺書を死後家族が見て、伝えられない想いを伝えたかったのだけれど、ドラマのようにそう上手くはいかないもの。沙織が手術前にあの手記を見つけてしまい、運命の輪は思いもしない方向に進んでしまった。
 生きているうちに私の本心が修吾君に伝わってしまい、修吾君もそれに応えるかのように行動してしまった。幼少の頃から考えると三十年以上もの間、私を想い続けていたのだから当然の行動で、修吾君を責める云われはどこにもない。悪いのは想いを形にしてしまった私なのだ。
 沙織は未だ私や修吾君を恨んでいるようで、今日話し合った際に今後二度と修吾君の話をしないと誓った。私自身その気持ちは固く、なによりこれ以上沙織を傷つけたくはない。ただ、沙織の心には修吾君を恨む一方、愛する気持ちがしっかり残っていることも分かった。
 だからこその離婚であり、深い恨みも残っているのだと思う。いつか恨みが消え、修吾君を愛する心のみが残ればいいのだけれど、私にそれを望む資格などはない。願わくば、どんな形にせよ二人には幸せになってもらいたい。それだけが私の今の素直な気持ちだ。
 最後に、人を愛するということは簡単なようで難しい。今回の事で私はつくづくそう思った。愛する人の将来を想い気持ちを隠した私。愛する人に気持ちを知って貰いたくて手紙に本心を書いた私。どちらの行為も愛する人を傷つけただけだった。
 逆に最後まで本心を隠し続けていたとしたら、私の心は寂寥に囚われバラバラに壊れていたかもしれない。愛する人を想う余り自分の心を欺くか、結果を顧みず自分の心に素直に従うか、どちらを選択するかは自分の心次第。だけど人生と同じで、片方が間違っていて片方が正しいという明確な答えなんてないのかもしれない。
 家族から愛され、修吾君からも愛され、私はとても幸せ者だった。これからは、今の幸せに気付かせてくれた愛する家族のために生きていこう。償いになるとは思わないけれど、私に残された道はそれしかないのだから』

 日記を閉じると沙織は溜め息を吐き中庭を眺める。両親を失った沙織にとって、この一軒家はただの空間でしか無くなった。家族がいて初めて『家』というカテゴリが成立するのだと、沙織はつくづく思う。
「愛、か……」
 ぽつりと零すように吐き、再びボーッと日記を眺める。遠くに聞こえる蝉時が夏ということを嫌でも押し付けてくる。
「今更だよ。お母さん」
 深雪から亡くなる前に聞いた修吾の入院先に、沙織は未だ足を向けていない。気にならないと言えば嘘になるが、どうしても踏ん切りがつかない。修吾の起こした行為が許せないというのではなく、自分自身が修吾に対して取った行為が恥ずかしいのだ。
「それに、今でも百パーセントお母さんを愛しているはず。むしろ誰か他の相手と結婚してたりしたら絶対許さない!」
 心の中で考えていた言葉が無意識に出て沙織はハッとする。
「馬鹿らしい。なんで修吾のことでイライラしてんだろ……」
 畳に大の字になると目を閉じる。静かな屋内には蝉の鳴き声だけが響いてくる。
(このまま昼寝しよ……)
 沙織がそう決めた瞬間、タイミング悪く訪問者を告げるチャイムが鳴る。
「あぁもう、タイミング悪ぅ」
 ぶつぶつ文句を言いながらドアホンに出る。
「はい、どちらさまですか?」
「ご無沙汰しております。以前深雪さんにお世話になった谷口直美と申します。近く通り掛かったのでご挨拶にと伺いました」
(谷口直美? う~ん、記憶にない。でも通さない訳にはいかないか……)
「少々お待ち下さい」
 沙織は洗面所で軽く姿をチェックしてから足早に玄関に向かう。
「お待たせしました」
 玄関のドアを開けると見覚えのある顔が現れる。
(あっ、思い出した。結婚式のときに私をずっと睨んでた人だ。確かお母さんのお葬式にも来てくれてたっけ……)
「その節はお世話になりました。どうぞお上がり下さい」
 動揺を隠しつつ沙織は宅内に案内する。直美を仏間に残すと足早にキッチンに向い、やかんに火をかける。次に慣れた手つきで菓子を用意し、リビングにセッティングすると再び仏間に戻る。直美は未だ熱心に手を合わせている。よほど深雪に対して思うところがあるのだろう。
 少し離れた位置に座る沙織に気付いたのか、直美は拝むのを止めて沙織に一礼する。
「深雪さん、早過ぎました。まだ人生これからなのに。私、ろくに恩返しもしてなかった」
 寂しそうに話す直美に沙織の心も熱くなる。
「母は幸せでしたよ。生前よくそう言ってましたし。悔いなく旅立ったと思います」
 沙織の言葉に直美は笑顔になる。
「あの谷口さん」
「なに?」
「谷口さんって、お葬式のときだけじゃなくて、私の結婚式にも出席してくれてましたよね? 母とどのようなご関係なんですか?」
「深雪さんとは私が小学生からのお付き合いになるわ。まだ小さかった私や近所の子の面倒を深雪さんはよく見てくれていたの」
「そうなんですか」
「その中に修吾もいたわ」
 修吾の言葉に沙織はビクっと反応する。直美を見ると笑顔は消え真剣な目つきで沙織を見つめている。
(こ、怖い……)
 沙織が言葉を継げず困っているところに、やかんの沸騰音が手助けする。
「あ、ごめんなさい。お茶を入れてきますので、お話しの続きは隣のリビングで」
「分かったわ」
 直美は素直に従いリビングに向かう。キッチンでコンロの火を止めると、自然と温度調整に入る。
(修吾の名前を出したとたん谷口さんの顔付きが変わった。今日ここに来たのはきっと修吾の話なんだ……)
 これからどんな話になるから緊張しながらも、美味しいお茶を入れるべく温度調整はしっかりする。お茶を差し出すと直美は一口だけ口を付ける。
「さっきの話だけど」
 直美は思いついたよう話し始める。沙織は緊張しながら耳を傾ける。
「深雪さんと修吾は同じマンションに住んでいた。だから特に良くしてもらったのが修吾なの」
「その話、修吾から聞いたことあります。母にはたくさん世話になった。お姉さんのようで母親のようで、そして、初恋の相手だって」
「知ってたのね。なら単刀直入に聞かせてもらうわ。どうして修吾を捨てたの?」
 その言葉に沙織はカチンとくる。
「捨てたられたのは私です! 修吾は私ではなく母を愛していた! 私は、母に修吾を取られたんです!」
 沙織の告白に直美はたじろぐ。しかし、少し沈黙した後、嘲笑うかのように口を開く。
「とんだお子様ね」
「なっ、何をいきなり失礼な……」
「あなた程度のお子様では、深雪さんに負けて当然って言ってるの」
「ほぼ初対面の私に対して、ちょっと失礼過ぎじゃありませんか? あなたに私と修吾の何が分かるというの?」
「分かるわよ。あなたは修吾の気持ちではなく、自分の復讐心を優先した。愛ではなく恨みを選択した。じゃないと『取られた』なんて言い方はしない。本当に修吾を愛していたなら、修吾を傷つけるようなマネはしない。少なくとも私はそう思う」
 自分自身理解していた傷をあっさり看破されて沙織は顔が赤くなる。
「だ、だったら、あなたがもし私の立場なら母との愛を認めますか? 愛する夫が自分の母を愛していたなんて、受け止められますか!?」
「難しいわね」
「なによ、なら私と同じじゃない……」
「娘の部分としてなら、の話だけど」
「えっ?」
「私、修吾と幼なじみだったのよ。幼稚園から一緒で初恋の相手だった」
 穏やかな顔で昔話を始める直美に沙織は戸惑う。
「中学の頃、私の方から告白したんだけど、深雪さんが好きだからという理由でフラれた。フラれた後も修吾は私と相変わらず友達で、それ以上にはならなかった。それから十年くらい経って、私の結婚が決まりそうってとき、どうしても愛を告げたくて修吾に最後の告白をしたの。結果は、言わなくても分かるわよね?」
「母を忘れられないとフラれた、ですか?」
「そんなところ。当時深雪さんとっくに結婚してて、子供だっていたのにまだ愛してるなんてホント馬鹿でしょ? とにかく修吾の深雪さんを愛する気持ちはハンパじゃなかった。だけど、私の修吾を想う気持ちも決して軽いもんじゃなかった。二十年以上想っていたんだから。でも、本当に修吾を愛していたからこそ、修吾の深雪さんを想う気持ちを尊重せざるを得なかった。確かに、娘としてなら修吾と深雪さんの愛を尊重できなかったかもしれない。けど、女としての部分なら私は修吾の気持ちを尊重したよ。だって、愛する人には幸せになってもらいたいじゃん」
 笑顔で語る直美を見て、沙織の瞳からは自然と涙が溢れ出す。
(そうだ……、私はただ身勝手だった。本当に愛していたのなら、修吾の幸せを祈っていたはず。お母さんが最後まで私や修吾の幸せを祈っていたように……)
 口を両手で押さえながら黙って泣く沙織に、直美は優しく語り掛ける。
「あなた、まだ修吾を愛しているのね……」
 直美の言葉に沙織は頷く。
「あなたと深雪さんと修吾の間に何があったかは聞かない。だけど、修吾は一方的に女性を傷つけたりするようなヤツじゃない。単純で馬鹿だけど、アイツはアイツなりに人の愛し方を知ってる。それは修吾と結婚したあなたがよく分かっているはずよ」
(この人の言う通りだ……、私は修吾の優しさに甘えていただけだ)
「私が何度も告白して落とせなかった修吾をあなたは落とした。三十年以上想い続けた深雪さんへの想いまでも退けたのは、あなたが持っている修吾への真っすぐな愛じゃないの? 自信、持っていいと思うよ?」
 直美の諭すような言葉に、沙織はただ泣きながら何度も頷いた。

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