【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
「……なあ、大丈夫か?」

 躊躇うように近づいてきた足音に、気遣うような少年の声が仙水の背後から聞こえた。

「蒼牙……大丈夫、とは?」

 水鏡の傍に立っていた仙水は思い当たる節がないとばかりに小首を傾げて少年と向き合う。
 誰よりも水辺が似合うこの青年

「俺、見ちまったんだ。……お前がさっき出てったあと……ほんの一瞬だったけど、辛そうに顔を歪めたお前が水鏡に映ってさ……」

 直接話してもらえないことを水鏡で見てしまった罪悪感のようなものが蒼牙の胸に圧し掛かる。
 
「……他には?」

「ん? それだけだぜ。ほんとに一瞬だったんだ……だから、どこ行ってたかまではわかんねーけど……その、悪かった。探るようなことして」

「……いいえ、謝る必要はないのですよ。とは言っても、過去を話せるほど私は強くありませんので、察して頂けたら」

 いつものように何でもないとばかりに柔和に微笑む仙水の美しい顔に少年はズキリと胸が痛んだ。

(まただ……また本音を隠してやがる)

「……何百年経ったら俺たち本音で話せるときが来るんだ?」

「なんです? いきなり」

 話は終わったと思っていた仙水は再び水鏡へと視線を戻していたが、少年の言葉を聞いて訝し気な瞳が戻ってくる。
 すると、腹の内に溜め込んだ思いを吐き出すように大声をあげた少年は、微笑みの仮面を壊すことができない自分にも苛立ちが頂点に達して高身長の仙水に掴みかかった。

「……っ本当は腸煮えくり返ってんだろ!? 知られたくないこと探られてムカついてるって言えばいいだろっ!!」

 精一杯の蒼牙の訴えにも顔色ひとつ変えることなく、また言葉に熱を込めることもなく淡々と言葉を紡ぐ仙水。

「本音で話し合うことが必ずしも良い結果を生むとは限りませんよ」
 
 自身の襟元を掴んでいる蒼牙の手を放すようにと、そっと手を添えた仙水の顔がわずかに曇った。
 
「そんなのやってみねーとわかんねぇだろ!? なんでお前はいつも冷めてんだよっ!!」

 少年は掴んだままの襟元を激しく揺さぶりながら、すべてを悟ったような言葉を並べる美しい青年の仮面を剥がそうと必死に訴えかける。

「……では問います。抗った先になにがあるというのです? 感情のまま私が動いたらどうなるか……貴方は考えたことがおありですか?」

 先程までの微笑みとはほど遠い自嘲を含んだ笑みが青年の顔に広がったかと思うと、それまで襟元を掴んでいた少年の手を払った。
 
「それでいいじゃねーかっ!! お前はこの世界の王なんだぜっ!?」

 噛み付くように声を上げた蒼牙へ仙水は、水の流れに身を任せる木の葉のように己の感情を無にした表情でぽつりぽつりと呟いた。

「"すべての命を愛し慈しむ。
穢れた大地を浄化し、この世界へ悪影響を与える存在から万物を護る――"
これらの言葉が……この世界の王へ与えられた使命が私の信念であるとお思いですか?」

 そう言い放った仙水の瞳は光の届かぬ深い湖の底のように暗く冷たいものだった。

「……なん、だよそれ…………お前、まさかっ……」

 背筋が凍るようなゾクリとした感覚が瞬時に蒼牙の体を駆け巡り、この言葉こそ偽りであって欲しいと願う反面……これが彼の本心であることはその雰囲気から疑いようのない事実だと思い知らされた――。


 ――湯殿を出たキュリオとアオイは纏わりついた水気を風の魔法でサラリと弾くと、ベッドへ背を預けたキュリオは胸元で柔らかな笑みを向けてくるアオイの髪を撫でる。細く艶やかなそれを幾度となく指が滑ると、吸いつくようなアオイの頬が指先に触れて――。
 ひんやりとしたキュリオの手が気持ちよいのか、湯上りのアオイは目を細めて体を預けてくる。

「ふふっ、私もお前の肌がとても心地いい。毎晩こうして触れ合っていなければ眠りにつけなくなりそうで怖いな」

 アオイがやって来てからというもの、一晩とて離れて眠ったことのないふたりはどちらかがいない夜を想像できないでいる。ましてや、ごく普通の一般家庭の父親と娘の在り方に詳しくないキュリオは年頃の娘に関する知識さえ曖昧だった。
 そもそも唯一基準となるのは自身の幼少期だが、幼くして城に迎えられたキュリオは誰かに甘えた記憶も共寝をした覚えもない。それが悲しいものだとは微塵も思っていないが、「じゃあアオイを同じように育てられるか?」と問われたら「なにを馬鹿げたことを!」と、怒りを露わにしてアオイを奪われまいと隠してしまうだろうことは想像に容易かった。
 さらに言うならば、"普通"を知らないのはアオイとて同じであり、基準となる対象さえいないのだからこの父親と娘の在り方に疑問を持つこともないかもしれない。

「アオイは城から出る必要などない。お前が必要としているものはすべて私の手の内にあるのだから」

 胸元に転がる愛娘の体を抱き寄せたキュリオの唇がアオイの目元に優しく押しあてられる。
 蜜月さながらに愛を囁き、幸福な未来を夢見る今のキュリオに障害はない。しかし、キュリオの愛に溺れそうなほどに愛されたこの赤子がそう遠くはない未来、キュリオの恐れる"普通"に憧れることになろうとは知る由もなかった――。
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