キャラメルと月のクラゲ
「あ、もしもし?」
いつもならそろそろイズちゃんが夕飯の支度を始める時間だった。
「もしもし? 鹿山さん?」
「うん。カニクリ今、一人?」
「あ、———うん。一人。イズちゃん張り切って美味しい魚料理作るって買い物に行ったから」
その電話の向こう側で私達の部屋からは聞こえない波の音が聞こえる気がした。
「住んでるのって江の島の近くなんだよね。一人はさみしくない?」
「さみしくはないかな。この部屋に思い出もあるし、管理人のお姉さんも遊びに来てくれるし」
「そっか。いいな」
私はいつもの調子を装っていた。
それでもカニクリは私に合わせてくれているのがわかった。
「ねえ、鹿山さん。………その、大丈夫?」
「うん。私は平気」
と会ってもいないのに心配そうな彼女の顔が思い浮かび、私は引きつった笑顔をしていた。
「それならいいけど」
何か含んだ言い方に彼女が私達のことを理解しているのだとわかった。
「今度私も泊まりに行っちゃおうかな」
「何なら今来れば? あ、でも駅から階段いっぱい登るよ。イズちゃんなんかずっと文句言いっぱなしで———」
「今日は、やめとくよ。階段って何段あるの?」
「わかんない。今度数えてみる」
ほんとうは辛いのに、辛いなんて言えずにいた。
「わかったら教えて。何段あるかで行くか行かないか決めるよ」
わけのわからない作り笑顔を浮かべて、平気なフリして楽しいフリをしていた。
「………カニクリさ、心理学っておもしろい?」
「うん、おもしろいよ。私が好きなのは集合的無意識の話かな」
「へぇ、どんなお話?」
「簡単に言うと、全てのヒトの無意識はつながっているって話。神話のモチーフとかね」
「そうなんだ。何かいいね。無意識ではつながってるって」
「そう言うとね。ちょっとロマンチックな話かもしれない。だけどね、私は少し違うと思うの」
カニクリは電話の向こうで少し笑った。
「たとえば、百人が全員完全に同じことを思ったり考えたりすることは難しいけど、その中で二人だけは同じことを思って考える偶然は起こり得《う》る。そんな奇跡みたいなお話だと思ってる」
二人だけは同じことを思う奇跡。
「恋をするってさ、無意識だと思うの。気付いた時にはもう恋に落ちてる。知らず知らずのうちに相手のことを気にかけている。それを理解したら、恋が始まるの」
相手が自分を好きだと思い、自分も相手を好きだと思う。
決して一方通行ではない恋の奇跡。
そんな簡単な奇跡が私には起きない気がする。
「言うほど簡単じゃないんだけどね」
と言って微笑むその気配の裏側にはカニクリ自身のことを言っているようだった。
「ヒトってね、波があって、リズムみたいなその波長が合ったヒトを好きになるんだって」
カニクリが私に優しくしてくれる。
いつもはキツいツッコミしかしないのに、二人で話す時はその何倍も優しくて、ついつい甘えてしまう。
「そういうヒトともちゃんとわかり合えたりするのかな」
「できるよ。理解してあげたいって理解してほしいって、鹿山さんが思える相手だったら、できるよ」
けれどその距離を時々さみしく思う。
「カニクリ、梨世って呼んで」
「急にどうしたの?」
「ううん、急じゃない。前から思ってた。———私、ちゃんとカニクリと友達になりたい」
カニクリに私を理解してほしい。
「だから、梨世って呼んで」
そして、私もカニクリを理解してあげたい。
「———梨世」
「………うん、ありがとう。私もカニクリの下の名前で呼んでいい?」
「私はカニクリだからそれでいいの」
「そっか。そうだね。いつか教えてね。カニクリのこと、もっと知って理解したい」
「わかった。それよりも、梨世は他に理解してほしいヒトがいるでしょ? 話し合わなきゃいけないヒトがヒトがいるでしょ?」
そうか。私は理解してほしいのか。
話を聞いてもらいたい、かまってもらいたい。
私はちゃんと誰かに向き合ってもらいたいんだ。
そして、私にちゃんと向き合ってくれるのは———
「イズちゃんに伝えて。明日ちゃんと話し合いたいから帰ってきてって」
「今日じゃなくていいの?」
「今日はもう一人向き合いたいヒトがいるから、そのヒトと話すよ」
「………そうだね。わかった。伝えとくね」
「うん。ねえ、カニクリ。最後に教えて。私がしたこと、イズちゃんから聞いたんでしょ?」
「聞いたよ」
「どうして、怒らないの?」
「怒ってほしいの?」
「………わからないよ」
どこか歪んでいた。
いつからかはわからない。
「カニクリ、———わかんないよ」
それに気付いた頃には元に戻せないくらいへこんでいて、私は歪み続けるしかできなかった。
「梨世———」
心の深い底に澱《おり》のように歪んだ黒い塊が積み重なる。
「………さみしいよ———」
積み重なって我慢できなくなって、
「一人ぼっちはイヤだよ………」
私は彼女の前で初めて泣いた。
フラレて泣いていたのとは微妙に違う、全ての感情がごちゃまぜになって涙があふれた。
ただ、さみしいと思うだけだった
「結局、さみしかっただけなんだね。いいよ。今日は好きなだけ泣きなよ」
電話の向こう側でカニクリの優しい声と野菜を切る音が聞こえた。
私はそれ以上の言葉を口にすることもできず、コドモみたいに泣きじゃくり眠ってしまった。


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