キャラメルと月のクラゲ
第6話 「禁断の果実をそそのかしたのは彼女の罪」
 8月も中旬になった日曜日。
イズちゃんが家出した。
「カニクリちゃんのお家《うち》に家出します。しばらく帰りません」
行き先を示した置き手紙を残して家出とは言わないのかもしれないけれど、そんなことを気にしていられない理由が私にはあった。
「私は悪くない」
私を裏切ることのないイズちゃんを私は、完璧に裏切ったのだ。
「私が悪い」
誰もいない私達の部屋にカーテンの隙間から朝日が入り込む。
気持ちの悪い汗が私の全身を包んでいる。
「ただ、さみしかったの………」
こんな時に限って私を癒してくれる存在は海外に出張で会いにも行けない。
「———さみしいの………」
座り込んだ私をテレビ台の上のガジュマルの木が見下ろす。
その隣のコルクボードの写真では高校生だった私達が、私とイズちゃんが修学旅行で行った沖縄の海で笑っている。
私の隣にいるイズちゃんが笑ってる。
「私を裏切らないイズちゃん」
私を置いて出ていったイズちゃん。
「私を———裏切ったイズちゃん」
一人にしないで。
「ヒトリはイヤなの!」
立ち上がった勢いで私はガジュマルごとコルクボードを振り払った。
床に落ちたコルクボードに貼られた写真が土に埋まる。
私だけが、歪《ゆが》んだ笑顔で笑っていた。
「………さみしいね。梨世」
ただ、私がさみしそうで近くに置いてあった化粧ポーチからバラバラと化粧品をまき散らした。
買ったばかりのファンデーション、かわいいデザインのピンクのグロス、真っ赤なリップ、鮮やかなピンクのチーク。
「ほら、もうこれでさみしくない」
割れた小さな鏡に映る私は、歪《ゆが》んでいた。

***

きっとこれは、真夏のせいだ。
「ねえ、カニクリちゃんのお家ってまだー?」
全てをそう思いたかった。
女優帽をかぶりグレーのロングカーディガンをひらひらとさせて歩くイズちゃんはそう言った。
やけに主張したボーダーのVネックのTシャツの裾をパタパタとすると見えるかわいらしいおへそと白いデニムから伸びたはちきれそうなくらい瑞々《みずみず》しいふとももは真っ白だった。
私がなぜこんな豊満なだけのオンナを自分の、いや彼と過ごした部屋へと連れていこうとしてるのか。
「さっきも言ったけど、この階段を登ればすぐだよ」
登り切る前に何回言うつもりなのか。
思えば、朝から電話で起こされた。
締め切り間近で夜通し書いていた私はうたた寝していたのを起こされて機嫌が悪い上に、朝に連絡があり昼前には着くはずが迷って乗り換えの駅まで電車に乗って迎えに行く羽目になったことがさらに輪をかけた。
「もう体が重くて歩けないよ。暑いし虫がいっぱいだし」
この子、こんな文句言う子だったっけ?
とにかくその体に、特に胸にムダに蓄積された脂肪を燃焼させればもう少しは楽になるだろうよ。
その胸の脂肪が!
て、胸、胸って私は盛りのついた男子中学生か。
これ見よがしにざっくりと胸の開いた服を着たこの子がいけないんだ。
その白い肌にじっとりとかいた汗が谷間に流れ落ちて———
いや、もうやめよう。
何だか虚《むな》しくなるだけだ。
見下ろした自分の胸が、足元が何の苦もなく見えるこの私の胸が憎い。
「どうしたの? カニクリちゃんも疲れちゃった?」
いや、やっぱりこの胸が、巨乳が憎い。


「わぁー! すごーい! キレー!」
イズちゃんが窓を開けて眺める。
「カニクリちゃん、こんな眺めのいいところに一人で住んでるの?」
「まあね」
「あ、でも何か誰かと住んでたみたい」
察しがいい子は嫌いだよ。
と私は心の中で思った。
「昔ね、好きだったヒトの部屋なの」
そして私も何を話し出すのか。
この話は、誰にも、二度としないつもりだったのに。
「そっか。どんなヒトだったの?」
「———マジメなヒト」
彼の顔を思い浮かべると今でもちゃんと思い出せる。
「バカみたいにマジメでさ、私みたいなギャルにも真っ直ぐな目で、うーん何て言うか、真っ直ぐに生きろって言うヒトだった」
もう四年も前のことなのに。
「ふーん。だからカニクリちゃんは、朋弥くんが好きなの?」
「………は? え? 何でそこで椋木くんが出てくるの?」
「だってカニクリちゃんも朋弥くんのこと、好きでしょ?」
察しがいい子は嫌いだよ。
と私は心の中で再び思った。
「朋弥くんはモテモテだな。確かにメガネ取ったらかわいい顔してるからなー」
天然のくせに洞察力が鋭い。
「このこと、あの子には言わないでよ」
「あの子? 梨世ちゃん? 言わないよ。言わないけど………」
「うん。何となくわかる。家出したのだってあの子がアナタのカレシに手を出したからでしょ?」
「まあ、それは私が彼のケータイ見ちゃったからいけないんだけどね」
「それは違うでしょ。ヒトの、しかも親友のカレシだってわかっててやったんでしょ。アナタは何も悪くないじゃない。それよりもカレシだって悪いじゃない。アナタはただの被害者じゃない」
「彼は私と梨世ちゃんが友達だって知らなかったみたい」
「だったらいいの? カレシが浮気しても」
「梨世ちゃんはさみしがり屋さんだからなー。だから、早く朋弥くんと付き合ってもらいたいって思ってるんだけど、そうすると今度はカニクリちゃんがさみしくなっちゃうかなって」
「何言ってんの。私は別にいいのよ。あの二人が付き合うなら、それで」
「ほんと?」
「うん。それでいい―――」
「そっか。………今日はカニクリちゃんのお話聞けてうれしいなー。カニクリちゃんギャルだったんだねー。メイク上手いしオシャレだし何か梨世ちゃんと似てるなって思ってた」
「似てません」
「あ、そうだね」
ベランダに出た私達は自然に笑い合っていた。

***

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