キャラメルと月のクラゲ
私達が浴衣を買いに行き、他にもいろいろと買い込んでイズ梨世の部屋でご飯を食べてくつろいでいると、バイトを終えた梨世と椋木くんが帰ってきた。
ぎこちないその距離感の二人を余所《よそ》に私達はひとしきり騒ぎ、メロスくんと泊まりたいと駄々をこねるミツさんを送り出した。
「カニクリは今日泊まっていくの?」
「うん。さすがにもう終電ないからね。それに最近イズちゃんが私の歯ブラシ買ってくれたから」
「いつの間にイズちゃんとそんなに仲よくなったの?」
「この前、私の部屋に泊まりに来てからかな」
「へえ、そうなんだ」
「椋木くんはもう少しいいでしょ?」
「うん。もう少しだけね」
いつもの優しい椋木くんだった。
リビングに戻ると梨世はお風呂に行ったばかりで、
「朋弥くん。のぞいちゃダメだよ」
「のぞきません」
からかうイズちゃんに照れながら真面目に返す椋木くんは面白かった。
「私、部屋で課題やってるからカニクリちゃん、あとはよろしくね」
飲み物は冷蔵庫に入ってるよ、そう言い残してイズちゃんがリビングから去っていく。
リビングに私と椋木くんだけが残される。
「………シズクとほんとに別れたの?」
微妙な空気がさらに悪化するような質問だった。
「別れたよ」
「それでよかったの? 後悔してない?」
「してない、て言うのは嘘かもしれない。それでも、気持ちに嘘ついたままシズクと付き合えないよ」
「そっか」
苦笑いのままの彼の表情でわかってしまった。
「———梨世のこと、気になるんだね」
「うん。住む世界が違うって言うか、釣り合わないかもしれないけどね」
こうなる原因を作った自分を少し恨《うら》んだ。
あの日、梨世が大変だと椋木くんに電話しなければこうはならなかったかもしれない。
自業自得だ。
自分で叶わない恋を作り出している。
「それって手の届かないところにあるからこそ、ほしいと思っちゃうんじゃない? 高いところにあるブドウはすっぱい、みたいな」
「キツネの話? アルデルセンだっけ? グリムだっけ?」
「イソップの『すっぱいブドウ』だよ。もしくは『キツネとブドウ』ってタイトルの」
「そんなタイトルだったんだ。何となく内容覚えてるくらいだな」
「あれね。フロイト心理学では、防衛機制の合理化の例だって。努力しても得られないからその対象を価値がない、としてあきらめることを言うんだって」
自分で気付いてしまった。
私は彼に彼女をあきらめさせようとしていた。
「僕は、あきらめてないよ」
「………どうしても?」
「うん。だって、―――好きだから」
私も、好きだ。
目の前にいるのに手の届かない存在の彼が、好きだったんだ。
「———そうだね。そんなことわかってたよ」
自分の中でも認めようとしなかっただけだ。
「両思いになれたらいいね」
私の薄っぺらい言葉。
「なれたら、いいよね」
彼の重すぎる願い。
「梨世の好きなモノ、好きになってみたら? 話が広がるかも」
思慮深さが足りない私のセリフは彼の反論を招く。
「好きなヒトの好きなモノを好きになるのって、思われてるヒトにとってはうれしいことかもしれないけど、好きなヒトの好きなモノだから好きだと言うのは僕がそれを好きになったのとは微妙に違う気がする」
「ごめん。簡単に言いすぎた」
「僕もごめん。勝手な意見を押し付けすぎた」
斜め前に座る彼が大きく息を吐いて言った。
「僕みたいな恋愛初心者が言うことじゃないよね」
「初心者ってほどじゃなくない? シズクと付き合ってたじゃん」
「そうだけど、実はシズクが初カノなんだ。だから初心者だよ」
「それなら私も一緒だよ。私も付き合ったのは高校の時のカレシ一人しかいないし。最近は何もないから」
「そうだったんだ。まあ、多ければいいってわけでもないよね」
彼は飲み物を一口飲んだ。
「付き合った数イコール、モテるかもしれない。だけど、そんなことは重要じゃなくて、まだほんとうの恋に出会っていないんじゃないのかな。モテないヒトの言いわけみたいに聞こえるけど、僕はそう思うよ」
彼は私を見ていた視線をグラスに落とす。
もうなくなってしまいそうだった。
「私もそう思う。だから、今の恋愛が運命なんだって思ってる」
「好きなヒト、いるの?」
少し驚いて顔を上げた彼の、メガネの奥にある長いマツ毛のその瞳に私が映る。
「うん。———椋木くんの中に、私と付き合うっていう可能性はあるのかな?」
これは告白なんだろうか。
もし告白なら、私の告白は失敗だ。
彼には好きなヒトがいると、それが梨世だと聞いたばかりなのに。
そんなつもりはなかった。
話の流れのついでに聞いてみたかったのだ。
私が、シズクでもない、梨世でもない、この私がアナタの隣にいられるのかどうか。
ただ、気になっただけなんだ。
彼がいつも見せる困った笑顔がいとおしい。
「答えがないのは、否定だと受け取っておくよ」
彼は、
「———ごめん」
とつぶやき、お風呂から出てきた梨世を見て、
「おかえり、鹿山さん。それじゃあ、僕は帰るよ」
そう言うと静かに部屋から出ていった。


「椋木くんと何を話してたの?」
髪の毛をタオルで拭きながら缶を開けてぐいっと飲むと梨世は私に尋ねた。
「イソップ童話の話」
「へえ。どんな話だったの?」
梨世は内容が気になるようだった。
「梨世も知ってると思うよ。キツネが出てくる『すっぱいブドウ』の話」
「あー、ちっちゃい頃に読んだことあるかも。おなかいっぱいになって幹の穴から出られなくなっちゃう話でしょ?」
「うーん。ちょっと違うかな」
「えー、違うの?」
「うん。キツネが高いところにあるブドウを採れなくて、きっとあのブドウはすっぱいに違いないってあきらめる話」
「ふーん。この話懐かしいねって話?」
「ううん。フロイト心理学では防衛機制の合理化の例として有名だねってこと」
「んー、頭のいい二人の話はわかんないよ」
「そんなことないよ。ただ心理学の話だからじゃない? くら………朋弥くんも、好きな話だったよ」
私は梨世に嘘をつく。
彼はそんなことを言っていないし、梨世が好きだということを教えてあげる義理はない。
彼が梨世にフラレてしまえば、それでいいんだ。
「そっか。ねえ、カニクリの夢って心理学の先生になること?」
そんな悪い考えの私を余所に梨世は夢について聞いてくる。
「先生っていうか、とりあえず大学院に進むことだけど、急にどうしたの?」
「私の夢って何だろうなって」
彼女は私を見るのではなく、視線を落としてその先のテーブルの向こう側の何かを見ていた。
「椋木くんに聞かれたんだよね。夢は何って」
「それで、何て答えたの?」
「私の夢はないって答えちゃった」
「ほんとうはあるのに?」
「うん。ほんとはね、私、幸せなお嫁さんになりたいの」
私なら臨床心理士になりたいと思うのと同列に、
「そう。お嫁さんになりたい」
彼女の小学生のようなありふれた夢は存在するらしい。
「そんなの、全《まっと》うに恋愛してれば叶うんじゃない? ここで言う夢はもっとこう仕事的な話なんじゃないの?」
「将来の夢がお嫁さんって変かな?」
「変ではないけど、答えに窮《きゅう》する」
「キュウする?」
「困るってこと。それで、何かないの? こういう仕事がしてみたいとか」
「んー。服が好きなだけで今の学科行ってるから、結局そっち系のアパレルの仕事になるのかな」
「梨世はオシャレだから向いてるよ」
「そうかな。でもまだ何がしたいかはっきりしないんだよね。デザインなのか販売なのか」
「それはこれから考えていけばいいよ」
「そうだね。………椋木くんは夢ってあるのかな?」
「私に聞かないでよ。椋木くんもまだ悩んでるみたいだったし」
「そうなの?」
「前に聞いた。だからゼミの先生の手伝い一緒にしないかって言ったら考えとくって」
「そっか。みんなちゃんと考えてるんだね」
「まだ焦ることないよ」
「そうだね。こういうこと考えさせてくれる椋木くんってすごいなあ」
独り言のようにぼーっとしながら梨世は言った。
「何で今まで考えなかったのかな」
「考えるきっかけがなかったんじゃない? ほら、梨世は恋愛体質で恋愛が人生の大半を占める重要なファクターだから」
「難しい言い方しないで」
頬を膨《ふく》らませて梨世は私を見ていた。
「ごめん。簡潔に言うと、恋愛が全てってこと」
「カニクリは違うの?」
「私は違うわよ。私はアナタみたいに自分かわいそうって思ってないもの」
さらに梨世はムッとした表情になった。
「自分は悲劇のヒロインだって思って無意識にそれになりたがっているのよ。世界で一番不幸なのは私なんだって思うのが好きなのよ」
「そんなこと思ってない」
「報われない恋に一生懸命で、そしてひたむきになってる。目の前にある幸せに見向きもしないで」
「それはアナタにとっての幸せでしょ? 彼といることが私にとって幸せとは限らない」
飲み物を持つ梨世の手に力が入る。
少し言いすぎたかもしれない。
それでも、お節介でも私は気付いてほしかった。
私が願ってやまない幸福をアナタは持つことができるんだと教えてやりたかった。
「そうね。確かに私は彼が好きよ。そんなつもりないのに告白みたいなこと言っちゃったわよ。でもね、ただそれだけのことで、彼が私を好きになることはないの。わかってるでしょ?」
「………うん。わかってる。空気を読むの得意だから」
梨世は持っていた缶を飲み干してテーブルの上に置く。
「私ね、小学生の頃からそういうの得意で、クラスの中で誰が一番力があるのかすぐにわかった。だってそういう子は必ずわたしを嫌うから。その見えない力に反抗したくなるんだろうね。人気者のいるグループで美人とかがちやほやされてるのが私も嫌いだった。マンガとかお話の中だったら私は脇役の悪女みたいな存在だったんだと思う。クラスの中でみんなに嫌われる低いポジションで、顔がよくてモテる中心的な存在のヒトがただうらやましかった。どうしてあそこにいるのが私じゃないんだろうって思ってた」
そしてじっとその空き缶を見つめている。
「そのグループにも入れずに教室の隅っこでカレシとどうしただの、オトコにどんなアプローチされただのって赤裸々に語ってみんなの関心を引こうと躍起になっている私が、ただの自己満のつまらないオンナになっていることがほんとうは堪えられなかった」
梨世は立ち上がるとその缶を持ってキッチンに歩いていった。
「結局、ただ誰かに私自身を認められたいだけだったんだろうね。それは今も変わらない」
薄暗いキッチンで冷蔵庫を開けている後ろ姿は、
「何か、かわいそうね。梨世って」
さみしいと泣いているコドモみたいだった。
「もう私達の前ではそんな虚勢を張らなくてもいいんだよ」
そんなかわいそうな梨世の承認欲求を、私は受け止めることしかできなかった。

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