キャラメルと月のクラゲ
第7話 「世界で一番不幸な灰かぶり姫は、世界の最果てで祈りを捧げる」
 夕方から降り続くゲリラ豪雨が強く窓を打つ8月下旬に入った月曜日。
僕の小さな部屋で、僕はシズクに別れようと告げた。
「———何で?」
僕は答えられなかった。
「私達、やり直せるんじゃなかったの?」
「シズクは悪くないんだ」
二人の沈黙を雨音だけが埋めている。
「………梨世のこと、好きなの?」
ベッドの上で並んで座る彼女は両手をぎゅっと握っている。
「好き、かもしれない………」
「———やっぱりな」
薄暗い部屋の中で、静かに涙を流しながらシズクは僕を見て笑った。
「いつか、そうなると思ってた」
「こんな気持ちのままシズクとは付き合えない」
「………何で、自分ばっかりキレイ事言うの?」
彼女の涙がぽろぽろとこぼれた。
「みんな思ってるよ。誰かと付き合っていたって目の前にいるヒトを恋人と比べてるよ。カレよりかっこよくない、カノジョよりかわいくない。気持ちは一個じゃないよ」
僕はただ、シズクのあふれてくる言葉を受け止めるしかなかった。
「私だって前のカレと付き合いながら思ってた。朋弥だったらこんなことは言わない。朋弥だったらこうしてくれる。ワガママで自分勝手だけど、ずっと朋弥が一番だった」
「………シズク」
「梨世のこと、好きでもいい。私と付き合っていて」
「———ごめん」
「イヤだよ。だって、朋弥に梨世は似合わないよ。住む世界が違いすぎる。梨世のことわかってないよ」
「それでも、シズクとはもう———」
と言いかけた僕にシズクはキスをした。
「………もういいよ。私に嫌われたくないんでしょ? 朋弥も、ワガママで自分勝手だね」
シズクの涙はもう流れない。
代わりに、一番の笑顔がそこにはあった。
「だから、私の最後のワガママ。———しよ? これで最後だから」
強く降りやまない雨音が僕達の吐息に重なった。

「今度の土曜さ、みんなで花火大会行こうぜ」
相変わらずこういうことを言い出すのはミツさんだった。
「ミツさん、そういうのは恋人とかと行くんですよ。ミツさんはいないんですか? 仲のいい女子」
掃除をしている手を休めて鹿山さんは言った。
「そんな二人で花火行くような女子がいたら合コン繰り返してねえつーの」
「あー、無理そうですもんね」
「うるせー。それにここにいるみんな恋人いないじゃん」
週の真ん中、水曜日。
蒸し暑い夏の陽射しから逃げるように、僕と鹿山さんがバイトの時間にみんな集まっていた。
「え? みんなって、………椋木くん、シズクと別れたの?」
カニクリはソファからレジ横のパソコンに向かう僕を見た。
「はあ。ミツさんしゃべりすぎ」
「いいじゃんか。慰めてやろうと思ったんだよ。なあ、イズちゃん」
「イズのことは言わないでくださいね」
イズちゃんがそう言って僕らは理解した。
イズちゃんもまたカレと別れたのだ。
その原因を作り出した鹿山さんは居心地悪そうにバックヤードへ入っていった。
「メロスくんは知ってたの?」
「ん? まあね。どっちも報告してくれたから」
メロスはアイスコーヒーを飲んでこうも言った。
「いずれわかることだし、無理して隠すこともなかったけど、言いふらすことでもないよね」
「それはオレが悪かったよ」
珍しく落ち込むミツさんはソファでうなだれる。
「にしてもこの店落ち着くけど、ホントに暇な」
「暇は余計だよ」
「悪い悪い。で、みんな花火大会どうする? イズちゃん、浴衣着てきてよ」
「うん、いいよ。梨世ちゃんと着てくね」
「よっしゃ。カニクリは? 浴衣持ってんの?」
「持ってない」
「だったらカニクリちゃん、一緒に買いに行こうよ。私、着付けもできるから」
「イズちゃんが選んでくれるならいいよ」
「とびっきりかわいいの選んであげるよ」
いつの間にか仲よくなっていた二人が笑い合っていた。

「椋木くん。餌やり、私やってくるね」
みんなが浴衣を買いに行ってしまい、店の中には僕と鹿山さんだけが残された。
夕暮れの赤い光と、店内の青い光が混ざり合って彼女の表情がよく読み取れなかった。
「うん。よろしく」
鹿山さんが孤独に打ち震えていたあの日から、僕と鹿山さんの距離感はおかしくなっていた。
必要最低限のことしか話さない遠い距離。
それでも全てを投げ出さずにいてくれたことに感謝したかった。
「ねえ、鹿山さん」
彼女は餌やりの手を止めることはなかった。
「何?」
そしてとても素っ気ない。
「鹿山さんは浴衣持ってるの?」
「………え? うん。持ってるよ。高校の時に買ったヤツ」
「そうなんだ」
ヒトを寄せ付けないオーラを放っているようだった。
「僕さ、みんなで花火大会行くの夢だったんだよね」
「そう。叶《かな》ってよかったね」
奥の水槽の様子をうかがいながら彼女は言った。
「………シズクと行かなかったの?」
「シズクとは夏になる前に別れたから」
気まずい空気だけが水槽の間を流れている。
「鹿山さんは夢ってある?」
「夢は、ないかな」
質問を投げかけてもその会話は続かない。
「私、夢みたいなことは願ってないの。現実的なことだけで、理想なんてムダだって思ってる」
何も言い返せなくなっていた。
短い沈黙の中、クラシックのメロディがよく響いていた。
僕は沈黙を埋められず言葉を探していた。
「椋木くん。無理にしゃべろうとしなくてもいいんだよ」
と彼女はその間を埋めてくれた。
「無理なんかしてないよ。ただ、鹿山さんに避けられてる気がしてさ」
「———ううん。避けてるの」
彼女は僕に視線を向けることなく言った。
「シズクと、お似合いだったのに」
手際よく餌やりを繰り返し、また同じように水槽を周りながら食べ残しを拾い上げていく。
「………この前さ、シズクのこと許したのかって聞いたじゃん?」
「そうだっけ?」
「聞いたよ。———ほんとうはまだ、許せないんだ」
「………スルーしたくせに」
ぼそっとつぶやいた言葉は宙を舞う。
「許せない自分が許せなかったから。鹿山さんにそう思われたくなかった」
「私と付き合ったらもっと大変だよ?」
「………え?」
「男友達も多いよ。浮気だってするし、親友のカレシにだって手を出すオンナだよ」
彼女がじっと僕を見ていた。
「だから、私のこと軽蔑してよ。———嫌いになってよ」
その強い光を放つ瞳に負けて、僕は今も言葉を見付けられずにいる。

***

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