キャラメルと月のクラゲ
これは私の、恋のフリをした醜い愛《アイ》の物語。
「初恋」
鹿山梨世。
それが私を示す記号。
そしてそれ以外に、何もない。
私の記憶している中で、それは物心がついたとか、いうのかもしれない、私が私であった初めてのできごと。
「何から話せばいいかな」
好き、という感情が私の中で初めて生まれたのは小学二年生の頃だった。
それまでは好きの感情は老若男女問わず存在していた。
たとえば、歯医者のお姉さん。
たとえば、スーパーのおじさん。
たとえば、母親。
「メガネをかけた頭のいい男の子だったよ」
小学二年生になった時、同じクラスで隣の席になったそーちゃん。
話しかけると少しうつむきながら答える。
その仕草がたまらなくかわいいと思った。
それがきっと私の初恋だ。
今となっては彼がどうしているかなんてわからないし、興味もほとんどない。
その頃の私といえば、さぞやかわいくて賢《さか》しいコドモに映っただろう。
私は世界の中心で、いや世界には私とその他のモノという図式しかなく、私以外の存在は作り物のようだった。
私はその作り物達からかわいがられた。
その理由が、私がかわいいからだと気付いたのは小学校に入る前、周囲のオトナ達から特別扱いされていたからだ。
けれど唯一祖母だけは私ではない同い年のいとこをかわいがっていた。
それは3歳にして気付いてから今までずっと続いている。
私は特別な存在なのに。
祖母の愛を得られないことが、私自身の悔しさであり、いとこに対する妬《ねた》みになった。
周囲が私の知らない思考で動いていると知ってから、私はその注目を引こうと躍起になってメガネの彼のことよりも私が愛されることのほうが重要になっていた。
そんな呪縛にも似た思い込みによって支配されていた私がいつの間にか12歳の誕生日を迎えようとしていた数日前、初潮が来た。
それは算数の授業中、朝から下腹部に鈍痛が続き片足を折り曲げて座っていた私をひどく驚愕させた。
何かが私の体から出てきたのだ。
それは排泄とは違う、重く熱いモノが私の中心から産まれた。
私は驚いてイスから転げ落ちた。
クラスのみんなが、隣の席のメガネくんが私を、私の赤黒い血に染まったソックスを見ていた。
担任はすぐさま委員長に私を保健室に連れていくように言った。
保健室では保健の先生が連絡を受けていたようで理由も聞かずに下着の替えを用意してくれていた。
着替えた私がベッドで横になっていると委員長は、
「おめでとう。これで梨世ちゃんもオトナの仲間入りだね」
と皮肉のように言った。
クラスの中で誰よりも成長の早かった委員長が小学生向けのかわいいブラをしているのは女子も男子も誰もが知っていた。
今思えば、彼女はカニクリに少し似ていたのかも知れない。
そっとベッドに腰かけ彼女は自分が初潮を迎えた時のことを話してくれた。
そしてそっと持っていたナプキンを私に渡した。
「男子には内緒にしなきゃいけないんだって」
この瞬間、私は女の子から違う何かになれた気がしていた。
家に帰り、母親にそのことを伝えると大急ぎでコンビニに行きレトルトの赤飯を買ってきた。
「そんなに特別美味しいものじゃないけど」
と母親と食べた赤飯は予想ほど美味しくはなかったけれど、私はコドモではなくなってしまったんだと思いながら食べていた。
「これで梨世もオトナのオンナだね」
その言葉を投げかけられてから、私の中で何かがさらに変化した。
変化したことを確信したのかもしれない。
それは心の変化だったり、体の変化だったかもしれない。
何より気持ちや考え方が変わった。
オトコの視線を意識するようになった。
まだ膨らみ始めの胸や体付きを見られているのだと思うと私の中の何かが疼《うず》いた。
そんなことを考えていた私が12歳の誕生日を迎えてから、二つ年上の幼なじみの先輩からデートのお誘いがあった。
中学二年生になった先輩のことを私はそれほど好きではなかった。
ただ、しばらく会わないうちに声も変わり背も伸びていて、とても大人びて見えた。
私の年上に対する感情の原点はここだ。
憧れと恋心を混ぜ合わせて、女の子から女性という対象、それはすなわち性の対象として見られることで、私は痛みとともに喜びを覚えた。
それから、オトコはみんな私に優しい。
友達はオトコのほうが圧倒的に多かった。
「キープ」
そうかもしれない。
中学も高校も共学でよく話しかけられていた。
そのたびに周囲の女子からはよく妬まれていた。
またカレシを取られたと言われたり、媚《こ》びを売るなと言われたりした。
ただ友達なだけで、そんなつもりはないのに。
高校一年になった時、学校に行って下らない女子の嫉妬やおしゃべりに巻き込まれるのが嫌になり不登校気味になった私をずっと親身になってくれたのが、担任のカレだった。
学校にいつでも戻ってこれるように一年から仲よくなったイズちゃんを介して様々なアプローチを試みてくれた。
その頃から私はカレとの接点を求めていた。
話があると呼び出したカレとのよくわからない進路相談にカレは真摯《しんし》に答えてくれた。
結婚して間もないカレの指には指輪が光っていた。
そんなモノは何の役にも立たなかった。
他人のモノだからこそ、光って見えた。
価値があると思えた。
だって私にはその価値があるから。
それが許されない不倫の恋だったとしても、私の人生には必要な恋愛だった。
私はそれからずっと先生のことが好きで、その埋まらない傷跡を埋める方法を探していた。
やがて先生に会うために学校へ通うようになった。
高校を卒業して東京に行くのも心のどこかにカレとの関係を独占したいという気持ちがあったに違いない。
けれどそれは叶わず、カレは私の夢を応援するという名目のままこの関係を終わらせることを選んだ。
だから、私はカレを忘れるために、カレに忘れさせないために、カレの目の前で好きでもなかった相手とキスをして、
「東京に行くからアナタとの思い出がほしいの」
なんてもっともらしい嘘をついて、告白してきたサッカー部のキャプテンと卒業式のあとにラブホへ直行した。
「そこからは話したでしょ? イズちゃんと上京してきてメロスと会って、アナタ達に出会った」
この話を包み隠さず話したのはカニクリが初めてだった。
イズちゃんにも言えない秘密の物語。
「私はアナタのセラピストじゃないんだけど」
カニクリは相変わらずの冷たい言い方で笑った。
「ナラティブセラピーって知ってる?」
「ううん。知らない」
「日本語にすると物語療法って言うんだけど、簡単に説明するとクライアントのお話を聞いてあげる心理療法で、そのヒトの独白を聞き出すことでその症状を改善させるんだけど」
「話を聞くだけなの?」
「ちょっと違うかな。よく誰かに悩みを話すことで自分で自分の立場や置かれてる状況を理解できることがあるでしょ? 自分の問題だけじゃなくて周りから受けている問題に気付いたりすること。それを促すやり方だよ」
「さすがカニクリ。よくわかんないけど、やっぱりカニクリは私のセラピストなんだね」
「どうも、カニクリこと、カニエクリニックです」
変な顔でやる気なさげに彼女が言うから私は笑ってしまった。
「まあ、とにかくさ。ヒトってね、きっと誰もが自分の物語の中の主人公なんだと私は思ってる。恋したり、フラレたり、楽しいことがあったり、悲しいことがあったり、何でもない一日があったり。そんなドラマみたいな日々も、何気ない日々も、アナタの物語の大事な一ページなんだよ。そんなページが集まった本のタイトルのことを『人生』って言うんじゃないかな。これからどうなるかは誰にもわかんないけどさ、今の思いを後悔しないように生きていこうよ。———ハッピーエンドじゃなかったら私が許さない。その本の主人公の幸せを読者として願ってるからさ」
カニクリの難しい言葉が、友達として私の背中を押してくれているんだと思えた。

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