いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
もう飲まない。もう酒止める。
シンデレラはガラスの靴を忘れた。そして王子様と幸せを手に入れる。
ぱんつを忘れたあたしは、もう笑うしかない。あの後、近くのコンビニまでの10分間はノーパンだった。羞恥プレイの極みである。
美穂も渡部くんも居ない1人きりの孤独な週末を迎え、日曜日も美穂の帰りは遅く、やっと話せたのは月曜日のランチタイムになってから。
足元に鳩が2~3羽やってきたので、これでちくっとやりな、とばかりにお惣菜をちょっと投げた。ため息をつく。
「もう飲まない。もう酒止める」
空に向かって呟いた所に、「で、どうだった?真相は」と美穂がやって来た。
あのメールの意味をここで訊ねたら、「だーって、上杉部長にセフレの証拠を突き付けて結婚発言を撤回させてやる!って後を追いかけたでしょ」
全然覚えてない。そして今は逆に、自分が弱みを握られてるみたいな状況にあるとは絶対言えない。思わず項垂れて、サラダランチ、レタスの花に顔を埋めた。
この土日の2日間。
ぼっちでマンションに居た2日間。
口止めされた事は一体何だったのか、頭を巡る2日間。
それと一緒に、上杉部長の無邪気な笑顔ばかりが頭に浮かんで来る2日間。
落ち着け。冷静になれ。彼氏居ない歴28年。彼女が居る人に真心を捧げても、さらに時間が重なるだけだ!寝ても醒めてもその幻を蹴散らし続けた2日間。
そして、月曜日と言う1週間の始まりの日。今日は朝から謝罪に明け暮れた。
朝一発のエレベーター前に久保田が居る。もうエレベーターの1部でいい。
「林檎!よくもツートップの前で恥部を晒してくれたな!」
恥部だらけ。どれを晒したのか、逆に教えてほしい。面倒だからとこれは無視した。デスクに付いた途端、今度はそこに鈴木くんがやってくる。
「僕がオドオドしてるもんだから、林檎さんにも余計な気を使わせてしまったみたいですね。これからは気を付けます」
この辺はまだ記憶があった。
「いいのいいの。あたしもつい勢いで、バカな事言ってごめんね」
何でもない事のように普通に謝ったら、
「林檎さんはスネオって言ってくれましたが、僕はどっちかというと、のび太じゃないかと思います。これからもジャイアン共々、よろしくお願いしますね」
……あたし、いつの間にそんな奇想天外なキャスティングをしちゃったの。
ジャイアンから生まれた妄想が果てしなく広がったに違いないと、想像は付く。のび太があんまりピッタリでスネオは相殺される気がしたけど、とりあえず謝った。いつものようにコーヒーを淹れて……その香りの中に、色々な事が思い浮かんできてしまう。ここは無理やり別の事を考えようと、あー来週から渡部くんは居ないっ!無理やり寂しい気持ちになっていたら、今度は岩槻部長が現れた。
「おいおい、林檎さん。僕は天下りじゃないんだよ。出向先をいくつか転々としたけど、元々ここの社員だからね」
これには血の気が引いた。「すみません、すみません」これが1番堪えた。
はったりカマすにも程がある。温厚な岩槻部長は怒るより「仕方ないなぁ」と笑ってくれて、諦めムードだから良かったようなものの。
「後はね、備えつけのお茶がセコい。この会社はブラック。社長は株主に嫌われている。それと」
「も、いい」
美穂から全容を聞けば聞く程、目の前が真っ暗になった。思えば、朝から謝らなくて済んだのは、あの場に居なかった宇佐美くんだけだ。命じた課題もちゃんと家でやってきたし、今朝は8時半にはもう出社しているし……日々成長している後輩に、こんなあたしが、どの面下げて先輩風が吹かせるというの。
「もう飲まない。もう酒止める」
せめてこれぐらい自分に罰を与えないと気が済まない。
「はいはい。何度聞いたかな。あたし午後イチで会議だから。もう行くからね」
美穂が消えた後も、「もう飲まない。もう酒辞める」謎の空間に向かって虚ろに繰り返す。そこら中の人間を、次から次へとドン引きさせた。
ランチから会社に戻ったら、エレベーター前に、また久保田が居て、
「林檎ぉ。今からでも謝れ。許さねーけど、ここで土下座しろ」
「しつこいな、もう」
それを避けて階談に飛び込んだ。階段の踊り場、手すりにもたれて、今日何度目かの溜め息をつく。マジ、もう絶対に飲まない。ダメ女、これじゃ恋愛するどころか仕事まで失う。
「もう飲まない。もう酒辞める。絶対に」
まるで呪文のように呟いた時、上から誰かが降りてくる気配がした。この靴音には聞き覚えがある。その予感は、思いがけず動揺と混乱を同時に引き起した。隠れなきゃ、という意識が強くて、あたしは下まで引き下がって身を隠す。上手く取り繕えるだろうか。こないだからの今日、初めて顔を合わせるというのに、どういう顔で向き合うのか、あたしの中で何も決まっていない。
息を殺して様子を窺っていると、そこに降りてきたのは別の男性社員だった。あたしに気付いて「ういっす」と軽く手を振ってくれるけど……ホッとする筈が、何かの期待外れが着地点を見つけられずに迷ってしまう。折角だからと予行演習でもするみたいに、取り繕った笑顔でそいつとしばらく話し込んだ。
そのせいで1時を過ぎた!宇佐美くんとの約束に大遅刻!林檎さんのバカ!
そこから新しい罰を受けるみたいに一段飛ばしで階段を駆け上がる。4階フロアに通じる鉄扉がいきなり開いてそれを避け切れず、がん!と音をたてて頭に直撃した。これも罰。美しい星が……額を押さえたまま、その場にうずくまる。
誰かがプッと吹き出したと思ったら、「まだ生きてる」くくく、と笑った。
見上げたら、いつにも増して無邪気な笑顔で。
「部長……」
上杉部長は、片腕のファイルを持ちかえて、あたしが落としてしまった財布を拾い上げた。それを手渡してからも、部長はずっと笑い続けている。……困る。目が離せないから困る。今も身の置き所が見つからない。
「後始末が大変だな、酔っ払い」
今日は何か特別な事でもあるのか。
部長は、いつものスーツの下にベストを身に付けていた。それだけの事なのに、急に改まった感じに映る。ふと目が合った時、急にその存在が大きく迫ってくるような錯覚に襲われて、あたしは一歩後ろに下がった。
「ちょうどよかった。おまえを探してた」
まるでマジックワード。その見慣れない服装のせいかもしれないけれど、一瞬、シンデレラを探してやって来た本物の王子様みたいに見える。「な、何ですか」
そこで、胸元から何やら小綺麗にラッピングされた小さな袋を取り出して、寄越された。アクセでも入っているのかと思うほど、発色の綺麗な紙に恭しく包まれている。匂い袋?戸惑いながらも、リボンを解いたら……ぱんつ。
「今どき、そんな物にまで名前書くヤツいるんだな」
瞬時にラッピングもろとも握り潰した。
「す、すみませんっ!」
妹2人と区別するため。というより妹2人から、「誰が見る予定も無ぇだろがよ。とっとと書けや」と脅されて、タグに〝まゆ〟と付けていた。もう恥ずかしくて顔を上げられない。
「おまえが最後まで気にしていたのは、これなのか」
「はい」
上杉部長は、そこからもう我慢できないとお腹を抱え、あはははっ!これまでで1番豪快に笑った。困るを通り越して腹が立つ。この悪魔的な愛嬌が憎らしい。
「その顔、絶望したマングースに似てる」
「ヘビを怖がるマングースなんか、この世に居ますかっ」
何その動物好き。じゃなくて!
まさかと思うけど、彼女に洗濯を頼んだの?それは無い気がするけど、あったら怖い。まさか部長が洗ったの!?それもあったら怖い。てゆうか1番可能性がありそうだから掘り起こさないでおきたい。洗ってる姿なんか想像したら、マングースどころじゃない絶望で気絶する。綺麗にラッピングしてる姿も!
部長はひとしきり笑い、こっちは、ひとしきり縮こまって、
「ありがとうございました。すみません。ご迷惑をお掛けしました」
あたしが気になる事は解決した。部長が気にして口止めした女の影は……頭の中の極秘事項に留め置く。これで恋人同士の間に事件は起こらない。よかった。ここで本気出したら笑えるのか、それとも泣けるのか。自分でも分からない。
くるりと出口に向いた所で、「待て」急に部長の声色が硬くなる。
「セクハラ。パワハラ。クソメガネ。色々言いたい事言ってくれてアリガトウ」
酔っ払いの後始末が、1つ遅れて今頃やってきた……。
「挙句の果てにノーパンで誘惑。どういう旨みが欲しくて家までやってきたか知らないが、クビにならないだけ有難いと思え」
「す、すみませんでしたっ」
「俺は岩槻とは違うからな。そんな謝って済むとか思うなよ。罪滅ぼしがしたいなら1つくらい叩き台を寄越せ。まともな企画なら俺の名前で出してやる」
「ク、クズですね」
渾身の一撃。今はそう挟むのがやっとである。
「悔しかったらモガいて這い上がって来い」
そこで手持ちのファイルから1枚書類を抜きだして渡された。
1行目タイトルを見て「コンパ」と読んだら、ぱこん!とファイルで叩かれる。
「ヤラしい事考えるな。まだ酔ってんのか。それとも元から頭が腐ってんのか」
目を近付けて、ちゃんと読んだら〝コンペ〟とあった。
「何か認められたいと思うなら、こういうチャンスを逃すな」
「……あたし、そんな事言いました?」
「〝恋愛も仕事もパッとしない。食って寝て会社行く。毎日このヘビロテ〟」
〝飲むより楽しい仕事なんてこの世にあんのかよぉ。何処にあんのか教えろよ。あんた先生なんでしょっ。うぷっ。教えてくれよっ、チンピラ毒メガネ!〟
「って、店のド真ん中で俺にケンカ売った事ぐらいは憶えてんだろうな」
ひいぃぃッ。
魂の叫びが最悪の形でダダ漏れ。剥き出しの自我を晒されてダメ出しを喰らう。
これほど痛い事って無いんじゃないか。マジ酒辞める。でも言うに事欠いて〝チンピラ毒メガネ〟って……ここで笑ったら血を見ると思って必死で我慢した。
「それ、コピーしてそこら中にバラ撒け」
じっとコンペの案内を見つめるあたしをそのままに、上杉部長は先を急いだ。階段途中、下の踊り場で彼は立ち止まり、何故か振り返ったので思わず目が合う。
どれぐらいの間、そうしていただろう。
やがて彼の方から目を逸らした。
それでも口元には、いつかみたいな穏やかな笑みを浮かべて……階下に消えた。
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