いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
売られたケンカ、と思う事にした。
「そうなると素通りもできないな」
こういう辺りが、元ヤン夫婦から生まれた気性を如実に顕している。妹なら、ケンカ上等!と大喜びで突撃するだろうけど。あ、ダメ。おバカだから勝てない。
その夜、美穂のマンションで、企画書のフォーマットを前に唸っていた。
こんなの新人研修以来である。?年前、この類の企画書作成をグループワークでやった覚えがあった。どうやって書くんだっけ?宇佐美くんなら、まだ鮮明に覚えてるかな。今夜は、ちくっと、やりながら……そこまで考えて、己の頬をぱちん!と叩く。酒を辞めると決めてからまだそれほど経っていないと言うのに、これだ。今も冷蔵庫で眠る大吟醸が、気になって気になって仕方ない。でも捨てるなんて出来ないし。
コーヒーを淹れ、場所を変え、気分も変えてダイニングに寛ぎながらまた書類を眺めて……不意に、手帳からはみ出したいつかの旅行券を取り出す。
こういうのをポイっとくれちゃうほど、部長は経済的に余裕ある人だ。あのタワーマンションだって普通に働いて住める所とは思えない。付き合う女性だって、もうそれなりの……極秘事項。でもそれって隠す事か?秘密の社内恋愛か?どういう訳で隠す?まさか不倫!?無意味な妄想だけが果てしなく広がる。
そこに風呂上がりの美穂がやってきたので妄想中断、慌てて旅行券を仕舞った。
「ピーチクリーム・ソルベ、まゆも食べない?」
その声を合図に「ほーい」と部屋でゲーム中の渡部くんもホイホイやってくる。
「君さぁ、一体、何千連泊するのよ」
「えへへ」
もう殆ど家族みたいになりつつあるな。まるで出来の悪い弟みたいな。
「あ、懐かしい」と美穂がフォーマットを取り上げた。
「あ、このコンペ知ってるっす」渡部くんも興味深々で1部をツマむ。
「まさか、まゆがやるの?」
「うん。まぁそれは」
見返してやりたい野郎が居ない訳でもないし……と、ここでは言葉を濁した。
「それって、ジャイアン?」
美穂に悩ましい目で探られたけど、「違がぁーう。久保田のクズだよ」と、ここでは言い張る。言い張っておく。何も無かったとはいえ、上杉部長を追いかけて家まで押し掛け、そのまま戻らなかったという事実は美穂には隠せなかった。渡部くんにはギリ気付かれていないと思う。美穂は、いちいち鋭いから……こっちが何も言わない事まで自動的に分かってしまうみたいな。
あたしの本心は……はっきり形にならない。というか、形にしてたまるか!とブッ潰し、蹴散らし、もう躍起になって振り払っている。
上杉部長は背が高いだけの男。仕事バカ。そしてあの俺様。セクハラ。毒舌。それも超しつこい。ああ言えばこう言う。どれを取っても残念な男なんだと……これを自分に投げ掛けて、自分で頷く。そんな残念データを1つ1つ思い浮かべると、困った事に、それでもお釣りが来る程の見返りが同時に浮かび上がった。
男性的な魅力はもう圧倒的で間違いない。10円ハゲ出来るほど仕事に対して真面目な人だ。会社にとっては無くてはならない人でもある。その上、あの笑顔……つまり、これらを凌駕する程の残念データが、まだまだ足りない。
あたしはソルベ半分を一気食いした。クールダウンで理性を呼び起こす。
「うーん、これはこれで悶絶ぅ」
「何でもいいけど、まゆのお酒の代わりになれば、いいんだけどね」
「なってくれ。なってくれ。もう謝り倒すのは嫌だぁ」
それを言うと2人が同時に吹き出した。「またまた、やってくれたっすね」と渡部くんにはソルベを一口横取りされるし、「やってくれたわよね。またまた」と美穂からはデコピンを喰らう。「痛っ!」これ、元ヤン親父のそれより痛い。
「まゆは、あたしのキャリア潰す気?言うに事欠いて、岩槻部長を天下りって」
「ごめん」でもこれだけ言わせて「2人揃って、何で止めてくんなかったのよ」
「「だって面白いんだもーん」」
2人は声を合わせて笑った。シンクロ率が高すぎる。
「あのさ、渡部くんの事なんだけど」
「渡部くんがうちを抜けて、美穂と同じチームで働くんでしょ。それを聞いた所まではちゃんと覚えてるから。大丈夫」
「いや、そういう事じゃなくてさ。これはまだ誰にも言ってなくて」
そこから美穂は言いにくそうにバスタオルに口元を埋めた。
「そうっすよ。こんな事、酔っ払ってる林檎先輩には言えないっすよ」
そこで渡部くんが、またあたしのソルベを一口すくったかと思いきや、それを自身では無く、美穂の口元に運ぶ。美穂はバスタオルを除いてそれを口に含みながら、その瞳はずっと渡部くんを追っていて……何?この、どピンクな空気は。
「言ってなかったけど、つまり、そうなのよ」
「そういう事なんっすよ」
ここで初めて、2人が付き合ってる事を聞いた。
うそぉーーーーっ!
思わずテーブルを、どん!と叩いた。「いつから!?」
「まゆがここに来るちょっと前から。気付いてると思ったけど違ったか」
入り浸っているのは、あたしの方だった……事実が、吐き気に近い破壊力でもって迫って来て、あたしは思わず口元を手で覆った。
「土日、2人で箱根に行ったんすよ」と、そこでお土産をもらう。
「やっと一度に渡せるっすね」
確かに今までは2人それぞれからお土産を貰っていた。「別々に買って別々に渡すの、面倒くさかったよね」美穂は、うふふと笑って頬を染める。
「待って。待って」頭を整理すると……ひょっとして、2人が話し込んでいると見たのは、仕事の事じゃなくて、次の日からの箱根旅行の事だったのか?
ひょっとして林檎さんは、ラブラブな2人の間に突然押し掛けて来て何連泊もしている、君から見て出来の悪い姉なのか?
「あたし、まるでお邪魔じゃん」
「「そう」」またまた2人同時に仲良く刺し込んでくれた。「えー、マジかぁ」と、思考回路停止。3分だけ許して。その間、2人はこっちの事などお構いなし、照れ臭そうに見詰め合ったまま、幸せそうに、ふわふわと笑っている。
「仕事に生きる女だと思って油断したっ!」という魂の叫びは無視された。
「実は、まゆが……マジで渡部くんの事好きなんじゃないかって思って」
「んな訳ないじゃん」
「ですよね。そんな訳ないって、僕はずっと笑ってたんすけどね」
だからそれを確実にするまで言えなかったらしい。
「でも、まゆにも面倒見てくれそうな彼氏が出来そうで。もういいかなって」
「え?マジ?誰っすか?僕の知ってる人?まさか久保……うぐっ!」
あたしは真っ先にデコピンして、そこから先の渡部くんの口を塞いだ。
「違う違う。確か横浜の超豪華マンションにお住まいの、ジャ」
「美穂!」
これは目ヂカラで押さえ込んだ。まさかデコピンする訳にもいかず。とはいえ、それを見越してカミングアウトにGOサイン出したと聞いたら複雑だ。
「あのさ、会社ではまだ内緒にしてるのね。あたし達の事」
でしょうね。あたしですら知らなかったから。
美穂曰く、渡部くんの能力が純粋に認められての異動なのに、美穂と付き合ってる事がバレたら、チームのリーダーが贔屓して引き抜いたと疑われてしまう。
「だから内緒でお願い」と来た。「了解。オーライ」
「林檎先輩がここに居候してくれたら、いいカモフラージュになるっすよ。だから当分は居てもいいっす」
「居候ねぇ。何か急に上から来たね」
調子にのるな、とばかりに渡部くんの額をまたデコピンした。もうっ、とろけそうな顔してくれちゃって。とっくにソルベも溶けちゃってんだけど。
「プレゼンかぁ」
美穂が唐突に書類をめくる。照れ隠しの話題転換入りましたーっ。
「確かさ、久保田のクズも狙ってるよ。このコンペ」
「マジで?」
「だってあいつ、ずっと営業職狙ってるじゃん」
美穂が言うには「クリエイターなんか裏方に過ぎない。我が社は営業が華。そういう先入観から抜け出せないんだよ」らしい。そういう輩は久保田に限らず、他にも結構居る。
「うっそ。負けたくない。っていうか、あいつには絶対勝たせたくない」
とは言ったものの、あたしで勝ち目あんのかな。
「林檎先輩がやるなら、僕も協力しますって」
「あたりまえでしょ」と、またデコピン。さっきよりはちょっと手加減した。
「まずはテーマか。ターゲットを絞ってね」
美穂は急にきりっとリーダーの顔になる。えへへ、と笑って部屋に逃げ込んだ渡部くんの、一体どこが良かったのかは謎だ。2人を例えるなら、サバイバルナイフと絹ごし豆腐。これはいつでもメッタ打ち可能。あたしと部長は……毒と林檎か。ファンタジー界にとっては最悪の組合わせじゃないか。
「説得材料にマーケティングは欠かせないよ。アンケートとか、データ収集はきっちりやってね」
そして、プレゼン。やる事たくさん……お酒が無い夜って長いよなぁ。
心の冷蔵庫をバタンと閉めて、自分で自分にデコピンした。箱根土産のどら焼きを開けて、お茶を淹れて、「おやすみ。お先に」と美穂は寝室に消える。
ドアを閉じる直前に、「頑張れ、ジャイ子」と余計な一言も言ってくれた。
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