いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
……上杉部長は、ずるい。
朝1。
エントランスでさっそく久保田に出会った。出会ってしまった、エレベーター前。いっその事、創立者の像と並んでツーショットでオブジェになってくれ。
「林檎ぉ、昨日あの新人シメたんだって?珍しいじゃん。後輩ヤリマンが」
「そんな事してません。久保田さんのせいで頭痛がするのでシメましょうか」
「俺のせいじゃないだろぉ」
そこで、何故か久保田は身体を寄せてきた。妙になれなれしいと思ったら、
「プレゼンさぁ、俺と組もうぜ。あの薄らボケの新人なんか捨てろよ」
何を言い出すのか。
「我ら企画が一丸となって、一発ドでかいの放り込んでやらないか?」
「捨てません。組みません。放り込みません。あたし急ぎます」
久保田のせいで、またここから4階まで階段かよ。そう思った所が、ちょうどエレベーターがやって来て誘惑に負け、久保田を無視して仕方なく一緒に乗る。
「いくら後輩ヤリマンでもさぁ、あの新人とは相性悪いゼ。昨日さ、おまえが新人にガン飛ばしながら会社から出て行くのを見たから、俺は心配でさ」
「どっちの心配でしょう。ガンは飛ばしてません。もともとこういう顔です」
エレベーターは辞めればよかった。後悔しても遅い。早く着け。元ヤンは、誰と見詰め合っても、それはメンチとなりにけり。字余り?そんなくだらない事を考えていうちに4階フロアに着いて、当然と言うか2人共一緒に降りる。
「考えとけよ」
「頭痛がする」
久保田の舌打ちを背中に聞きながら、あたしはデスクに着いた。机上には作成済みの資料が束になっている。どれも新人ちゃんが作ったもので、営業に渡る前に、あたしがチェックするのだ。そのチェックだけで半日が終わりにけり。
そして、午後1。いきなり外線が入った。これは珍しい。外部との用事の殆どはメールでやりとりする事が多いからだ。ちょうど宇佐美くんが取って、手に負えないだろうなーと思っていたら案の定、「林檎先輩」と、すぐに替わる。
『あ、林檎さん?よかったぁ。ちょっと手伝ってもらっていいですか。すぐそこの会場なんです。ARホールって分かります?』
鈴木くんだった。やけに切羽詰まってると思ったら、「突発的に資料の差し替えが起きちゃったんです。人手が足りなくて。急いでるのに」とか言ってる。
そこから長々と聞いてる場合じゃないと察して、とにかく現場に急行!
ビル間の強い風に逆らいながら、暴れまくるスカートを押さえて、ぐいぐい進んだ。会場のビルはすぐそこに見えるのに、こう言う時に限って、進んでも進んでも距離が縮まらない気がするのは何故だろう。
会場入り口、静まりかえったロビーに、書類にまみれた鈴木くんが居た。
「こっちです。もうコピーも間に合わなくて」
「何人分?」
「およそ300人でしょうか」
「さ!?300人!?」
「実際は250人位なんですが」とか言うけど、出入口扉の向こう、それだけの人数が居るとは思えないほど、何の音も聞こえてこなかった。書類を半分受け持って、鈴木くんに続いて入口に飛び込んだ所で、思わず息を飲む。
真っ黒、濃紺、ダークグレー、スーツ姿に男も女も居るけれど、その全員が目を閉じて一言も発しない。空気が静謐そのものだった。
上杉部長は今日も上等なスーツに身を包み、壇上脇で参加者を見渡している。部長はおもむろに近付いてきたかと思うと、「瞑想中だ」と小声で囁いた。
「瞑想……」
近年、ビジネスのモチベーション向上に、ヨガが脚光を浴びている。さっそく取り入れているのか。さすがというか、アンテナ感度が高い人だな。ますます鈴木くんのリスペクトが止まらないな。その鈴木くんだが「たまに、こっちの時間稼ぎにやるんですよ」と実情を晒して、部長には軽く睨まれていた。
部長の合図で瞑想が終わった途端、あちこちからさざ波のように声が、溜め息が、新しい緊張感が、そぞろ伝わってくる。
上杉部長は「ありがとう」と最高の作り笑顔で書類の1部を取り上げたかと思うと、そこから急に耳元まで近付いてきた。「さっさと配れ」眼力が鬼気迫る。
2人目の分身も、今はお芝居する余裕が無いらしい。自己紹介を始める部長を尻目に、鈴木くんと一緒になってビジネスマンの海原にどぼん!と飛び込んだ。
〝社会問題と利益~管理職のメンタルバランス〟
どの組織も何かの問題を抱えている。仕事上、利益を追求しなければならない。全てが管理職だという参加者の真剣度合いからも、切実な現状が垣間見える。
上杉部長が最後に発した、「あなたの人望を、最初の決意を、決して無駄使いしないように」という言葉が印象的だった。美穂を初めとして、巣立っていった渡部くん、大勢の同僚の顔が、あたしの脳裏に浮かんで消える。
およそ2時間の講義が終わり、後始末に追われる上杉部長の周りには参加者が大勢群がっていた。女性だけじゃない。「資料にサインください」「握手、お願いします」男性も熱烈、部長をとり囲んでいる。女性には邪な視線も無い訳じゃないけど、その殆どはひたむきな目線が印象的だった。
ここまで来ると、残念データを探すという事そのものが無駄に思えてくる。
……上杉部長は、ずるい。
別世界を見せられる度に、その差がぐいぐい開いて行く。ビジネスマン達に囲まれて、もうその背中すら見えなくなった。恋愛感情がどうこういうより、あたしは鈴木くんに並んでリスペクトする資格にさえ追い付けないんじゃないか。
急に目の前が開けたと思ったら、スーツの波を掻き分けて部長が近付いてくる。
「林檎さん、お休みの所申し訳ないんですが、こちらからアンケートの回収をお願いします。時間が迫っているので早急に」
穏やかな口調。でもメガネの奥の目ヂカラは強いままだった。ボケっとすんな。とっととやれや……最近は幻の声まで聞こえてくる。ぴゅーっと飛んだ。
一通りの後始末を終えて、研修会場を後にする。
途中、アンケートを抱えてフラついた所を、参加者の一人に助けられた。角刈りの、まるで柔道部員みたいな我体の良い男性で、そのスーツがぴちぴちだ。
「ありがとうございます」
そう言うと、向こうが顔を真っ赤にしたもんだから、こっちも妙に意識してしまうし。あぁ、きっとキミも居ない歴長いんだな。大丈夫、あたしより傷は浅い。まだまだイケる。そこに上杉部長が2人目の分身を携えて満面の笑顔でやって来たかと思ったら、「起きろ」こっちの耳元、と言ってもそれがかなりの大声で、三半規管が潰れそうになる。
「ね、寝てませんけど、すみません。確かに、ぼうっとしてました」
「それはオフィスでは死んだも同然。あと、後輩ヤリマンを外部に漏らすな」
「名誉棄損です。そういう部下の悪評を外部に漏らさないで下さい。ほら」
柔道男性が呆気に取られている。だが明らかに、あたしの悪評が原因ではない。そうです、これが上杉東彦大先生の実態なんです。柔道男性は、微妙な笑顔を浮かべて行ってしまった。
「仕事中にヤラしい事考えるなよ。参加者をナンパしたら殺す」
「そんな事しません。こんな殺気だらけの合コンなんか最初から参加しません」
ヤラしい事ばかり考えて、それでイライラするのも、キャン言うのもこっちばかりだ。本気で置いてけぼりにされた1日だと思った。
会社に戻り、アンケート用紙を担当の社員に手渡して、ひと息ついていると、
「おい、林檎」
今度は何でしょう?
全部終わった。もう7時を過ぎた。来週の事かな?右手にペン。左手にメモ帳。まるでご褒美が欲しくて集まる犬のように、あたしは次の言葉を待っていた。
「今夜メシを食う。おまえも来い」
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