いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
「これが本当の呪いだ」
それは一瞬で空気を変えた。
ちょうど同時刻、「林檎さぁん」とスキルレベル1でお馴染みの後輩ちゃんがやって来たので、「はいはい。今日はエクセル?フォトショ?パワポ?」と適当に応えていたら「呼んでるみたいですよ、あの人が」と明後日の方向を指さした。
くるりと椅子を回転させると、企画部とは1番遠い広報課のデスクあたりに、あの……上杉東彦が居る。くるりと舞い戻った椅子をさらに回転させるという2度見3度見を繰り返して、あたしは思わず立ち上がった。
広報課の女性社員からまったり誘導されて、そして企画部エリアに入り込んだ所で放置されて(させて)そこから先、彼は迷いの無い足取りでどんどん近付いてくる。逃げ場を、言い訳を上下左右探りながら、あたしは勢い受話器を取った。
「はい。はい。大丈夫ですっ。今日中に何とか。プレゼンには間に合うと」
そこで急にパソコンの画面が真っ暗になったと思ったら、一瞬で強制終了を打ちこまれていた。
「クソ芝居すんな。大根は足だけでいい。今から上の研修室だ。急げ。殺すぞ」
何で警備員は飛んで来ないのか。
「早くしろ」
ここで周囲に助けを求めようと……見ると、ファイル、モバイル、地下アイドルのうちわ、それぞれ隠れて見ない振りをしている。「何なのもう!」渡部くんにはもれなく八つ当たりして、とりあえずあっという間に消えた彼の後を追った。
ちくっと……やる暇無いっ!
「確か、女には近寄るなって言いましたよねっ」
「世間的には年上で、ここでは上司だ。呪うなら敬語で呪え」
「それで呪いが無効になるならファンタジーは成立しませんよっ」
通路で不毛なやりとりを繰り返し、エレベーターを横切って階段に入ったら、そこから3つ上まで昇ると言う。「……マジか?」のろのろと1段1段昇っていると、遥か上から、「急げ。短い大根は回転力を発揮しろ」上杉東彦から殆ど嫌がらせのような発破を掛けられた。そこから、まるで敵にトドメを刺す刺客のように、彼を目掛けて階段を2段飛ばしで駆け上がる。誰に向かうアピールなのか、スカートが無駄にめくれ上がった。
上の大きな研修室には、今日の研修を終えたばかりの参加者が溜まっている。スーツ姿。入社3年目。ホワイトボードの〝交渉力向上研修~入社3年目から狙うネクストステージ〟を見て、まんまそう判断した。女性は半分くらいだ。騒然とする中、彼は1度眉間にシワを寄せ、「自己紹介しろ」と、マイクをONしてこちらに手渡す。短いハウリングと同時に、およそ50人が一斉にこちらを注目した。思わず、体中に鳥肌が立つ。
「け、研修企画部クリエイターの、林檎です」
1番前の男性が、ひゅ~と乗っかってくれたので、ちょっと緊張が飛んで、「ははは」と片手で愛想を振り撒いたら、そこで上杉東彦がマイクを奪った。
「実は、彼女と……君達のお望み通り、結婚する事になりました」
その瞬間、明らかに時間が止まった。
その一瞬の後に続くのは、ザワザワザワ……爽快な滝の音。それとも、さとうきび畑。いやこれはまるで形を変えて這い寄って来る悪意のかたまりのような。
こちらの困惑にはお構いなし、ピーというハウリングをそのままに、上杉東彦はプイと研修室を出て行ってしまう。男性参加者はクスクスと笑っている。だが女性参加者はその殆どが嫌悪感と困惑を露わにしていた。妬みの大海原に、あたし1人が取り残されて。
「違う違う違う違うっ!違います!ウソです!ドッキリなんです!」
あたしはそれだけ言って部屋を飛び出した。彼を追いかけて階段を駆け降りると、あとちょっとで追い付くと言う所で躓いて転びそうになり、寸前、彼のジャケットの胸とも背中ともつかない場所にしがみついてしまった。瞬間、男性特有の香りが鼻先に広がる。好きな匂いかどうかも判断付かないまま……まるで鎖で繋がれたみたいに、あたしはそこから動けなくなった。
「馴れ馴れしいぞ」
ぷつん、と呟いて来られるまで、がっつり、しがみ付いている事に気が付かない。慌てて飛び退いて、まるで邪気を払うみたいに体中のあちこちを叩いた。
「ちょっと!何ですか、あれはっ」
「今研修中の奴らだ。明日はおまえも手伝え」
「でも、あたしの仕事が」
それがまるで聞こえなかったみたいに、彼はどんどん階段を降りていく。
「明日は鈴木が前に立つ。おまえは感情的な女性客を演じてシミュレーションに貢献しろ。得意だろ。クソ芝居が」
「嫌です!」
ここできっぱり切っておかないと引き摺る、と覚悟を決めた。
「冗談でもあんな事。イジられるのが目に見えてます。仕事になりません」
彼はここで初めて立ち止まって、こちらを振り返ると、
「いや、おまえは良い仕事をした。これで研修に集中できる。俺の役に立った」
「あんな茶番は仕事じゃありません!」
「上司が言うのはその全てが仕事だ。明日の事は上にも話しておく。おまえがここで働く以上は上に従え」これが本当の呪いだ……彼は口先で笑った。
「そう言えば、ディズニーはその唇で呪いを解いたな」
そこから……微かに煙草の香りが感じとれるほどの近い距離に、彼が迫って来た。メガネの奥から強い眼差しで覗き込まれると、自身に何の断りも無く体中が騒ぎ始める。小さな動揺が瞬く間に体中を巡って、次第にそれは震えに変わった。
彼氏居ない歴28年。このままでは上杉東彦に奪われる……!
だが上杉東彦はそれ以上近付く事を止め、何度か呼吸を繰り返した後、まるで答えを探して悩むみたいにジッと考え込んでいる。あたしは心持ち顎を引いた。さっきは仕込んでいない。だが、朝一発グイッと仕込んだ日本酒がバレているんじゃないか。上杉東彦と見つめ合ったまま、文字通り、息を殺して固まっている。
「ヤラしい事考えるな」
そこで彼はひと息軽く吹き出して、その場を離れた。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、一方的に惑わされた怒りも手伝って、あたしはそこからムキになる。そこから階段を転がる勢いで駆け降りて、上杉東彦の行く手を阻んだ。
「あたし手伝いませんからね。こっちは仕事が山ほどあるんですから」
「その通り。仕事は山ほどある。明日は9時からだ。遅れるなよ」
「嫌です。あたしは絶対行かないっ!」
一瞬、妙な間があった。そして、さっきと同等の動揺が、さっきとは違う緊張感で迫って来る。
「上司にタメ口でメンチ切るとは、いい度胸だな」
「け、喧嘩上等。こう見えて元ヤンなんで」
大ウソ。
とっとと逃げろや……心の中で舌を出し、動揺を押し殺して、あたしは腕組みで仁王立ちになった。
彼はフンと鼻で笑うと「俺は黒帯だけど。そういう民間団体と、どっちが強いのかな」ネクタイを少々緩めながら、彼はそこから1段下がって近付いてくる。
うそ。マジでやる気?
彼が女に手を上げるような最低男かどうかという事より、現実問題、階段落ちて怪我したらどうしよう、そっちの方が気になった。血の気が引いてくる。
「す、すみません。ウソですっ!元ヤンは両親と妹2人だけですっ」
うっかり事実を晒して縮こまったら、秒殺、彼はプッと吹き出した。
「そういうの反則だろ。ていうか、おまえの家族ってどういうの」
そこでメガネを外して、1度目元を拭った。そこからもう言葉にならないらしく、ずっと俯いたまま、くくくと笑っている。意外にも無邪気な反応に心打ち抜かれて……というか、ガチンコを回避できた事にもすっかり安堵して、「ははは。ですよね。ドキュンですよね。もう笑かすぅ」と、こっちもやっと笑けてきた。
そこからメガネを掛けたと思えば、すっかり元に戻って、彼は先を急ぐ。
「あの、まだ話終わってない……」
そこから4階フロアに入ったと思えば喫煙室ではなく、「去年のデータが欲しい」と1課のキャビネットを探り始めた。あたしはまず、目に飛び込んだ同僚女性社員に現状を訴えようとした所、「ブス同士が群れて慰め合うな」と彼が横からブスリと刺し込んでくる。「私じゃないよね?」「私でもないよね?」「私ブスじゃないもーん」と、彼女達は背を向けた。ここは直談判!と、仏の如く頭部に後光の差したる企画部部長を捕まえたら、何故か笑顔でひよこまんじゅうを渡される。
「林檎さん、結婚するの?会社辞めるの?マジでぇ」
「違うんです。違うんです。情報が早すぎますって」
そこにも彼は割り込んで「明日から、これを使います」と雑に依頼を投げる。
「まさか上に話しとくって、それで終わりですか!?」
「分かれば十分だろ。ハゲに泣き付いて、これ以上、地球に砂漠を増やすな」
そこで彼は、ひよこまんじゅうを奪って宙に放り投げた。偶然ひよこをキャッチした渡部くんに最後にすがったら、凍りついた笑顔で見なかった事にされて……結果、そこら中の仲間に助けを求めて大火傷に巻き込んだ事はムダに終わる。
「案件を3つ抱えてます。新人の面倒も見てるし。来週に迫る講座もあって」
殆ど涙目で訴えているのに、「ここは整理が雑だな」と彼は文句を言いながら、
「女の自惚れには反吐が出る。おまえが居なくても仕事は回る。世の中にはおまえより有能な人間なんかいくらでもいる。世間を知れ。朝は毎日鏡を見ろ」
結果……ファイルを一緒に探して、いくつか見つかって、そこから通路を移動しながら彼を説得している間中、会議室にその姿が消えるまでずっと、毒舌シャワーを浴び続けた。
放心状態。半分死んだようになってデスクに戻ってくる。魂を抜かれるとは、こういう事を言うのだ。ちくっと行こう、という元気も無い。
林檎まゆ、撃沈。
ごん!と机に突っ伏した。
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