二階堂桜子の美学
第二十八話 相思相愛
 
 小屋に入りドアを閉めると、瑛太は桜子を正面から抱きしめる。ある程度覚悟はしていたとは言え、人生初の異性とのハグに桜子の心臓は飛び出さんばかりに鼓動を打っている。
(瑛太君に抱き締められてる、大好きな瑛太君に。嬉しい……)
 じっとしたまま抱きしめられる幸せに酔っていると、肩口で瑛太がささやく。
「ごめん。どうしても我慢できなかった」
(瑛太君……)
「うん、いいよ。気にしないで」
「いいのか?」
「うん」
 肩口から離れると、瑛太の顔がすぐ目の前に来る。キスの素振りを見て桜子も目を閉じる。しかし、予想外なことにキスはおろか、抱きしめられる感覚もなくなる。目を開けると、瑛太は桜子から距離を取っている。
「瑛太君?」
「これ以上はできない。椿に悪いから」
(椿さん。そうか、これじゃ浮気だもの。瑛太君には椿さんという素敵な彼女がいる……)
 表情を曇らせ黙っていると、瑛太が口を開く。
「俺、正直に言うよ。ガキの頃からずっと桜子のことが好きだった。綾乃さんが言うように身分が違うし諦めてたけど、心の底ではずっと想ってた。だから、こうやって会うことを提案してくれたと分かったとき感激した」
(瑛太君! 今が言うときだ!)
「わ、私もずっと瑛太君を想ってた。幼少の頃からずっと。忘れた事なんてなかったよ」
「ほ、本当か? 桜子!?」
「本当だよ」
 返事を聞いた瞬間、瑛太は再び抱きしめ桜子も抱きしめ返す。
「桜子、大好きだよ。桜子」
「瑛太君、嬉しい。私も貴方が大好き」
 嬉しさのあまり涙が出そうになり、桜子はまぶたに力を入れて我慢する。
(嬉しい。ずっと願っていた想いが叶った。こんな嬉しいことはない。軽井沢に来ることを選んで良かった……)
 抱きしめていると瑛太が肩越しに話し掛けてくる。
「桜子、俺、椿とちゃんと別れる。だから、それまで待っててくれるか?」
「もちろん。ずっと待ってる。今までと同じように」
「ありがとう。それともう一つ。俺は必ず桜子に相応しい男になる。そして、いつか……、この先は、そのときに改めて言うよ」
(瑛太君、私と結婚まで考えてくれてる。嬉しすぎる!)
「はい、待ってます。大切なセリフをずっと、ずっと」
 離れると瑛太が熱い瞳で桜子を見つめる。
「ここでキスするのは美学に反するよな?」
「反するね。ハグでもグレーだと思ってるから」
「分かった。ちゃんとケジメつけてから、改めてお願いするよ」
「ええ、お願いするわ」
「ああ、つーか……、いや、いいわ」
 言い含んだ言葉が気になり、桜子は詰め寄る。
「言って。私たちの間に隠し事や遠慮なんていらないでしょ?」
「たいしたことじゃないんだ。これからの連絡方法をどうするか考えてたんだが、俺が新しい携帯買って桜子に渡せば済む話だと気が付いた。もちろん使用にはいろいろ制限があるだろうけど、桜子なら言わなくても分かるだろうから言うのをやめたのさ」
「瑛太君からは一切通話もメールもしない。私が大丈夫なとき、私から連絡を取る。って感じかしら?」
「基本そうだね。盗聴の可能性を考慮して、自宅ではメールのみにしないといけない」
「分かってるわ。学校でも絶対使わないようにする。メールだけでも瑛太君と繋がっていられるのなら、私は十分幸せよ」
 笑顔で言い切る桜子を瑛太も笑顔で見つめるが、急に顔色が変わる。
(どうしたんだろ?)
 視線の先にある窓ガラスに目をやり、その向こう側にいた女性の顔を見た瞬間、桜子は全身から血の気が引いて行くのをハッキリと感じていた。


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