透き通る季節の中で
 国語の授業中、美咲からメールが来た。


 見てたわよ。よく頑張ったわね。じゃあ、また放課後にね。


 私は嬉しくなって、国語のノートに美咲の似顔絵を描いた。

 先生に見つからないように、佐々木さんと小林さんと三村さんの似顔絵も描いた。



 亮太も見ててくれたかな。と思いながら。
 




 

 七時間目の授業が終わった瞬間、私は教室から飛び出した。



 久しぶりの部室。

 汗の染み付いた部室。

 いろんな思い出の詰まった部室。



 まだ誰も来ていない。

 あの日から、何も変わっていない。

 懐かしい匂いがする。



 私のランニングシューズが、いつもの場所に置かれている。

 誰かが洗ってくれたのだろうか、綺麗になっている。

 新品のように、光沢を放っている。



 暗がりの中、自分のランニングシューズを見つめていたところ、美咲と友紀とまっちゃんが部室に入ってきた。

 その瞬間、部室は明るくなった。



「走る気まんまんのようね」
 と美咲。

「咲樹のランニングシューズ、洗っておいたわよ」
 と友紀。

「帰りにファミレスに寄って、咲樹の復帰祝いをしようよ」
 とまっちゃん。

 四人でおしゃべりしていたところ、橘先輩と三年生部員と二年生部員も部室に入ってきた。

 女子部員の明るい声が、部室に響き渡る。



 私は輪から離れて、両手でほっぺたを叩いた。

 よし! と心の中で声を上げた。

 ヤッケを着て、友紀が洗ってくれた、ジョギングシューズを履いた。

 首にタオルを巻いて、部室から出た。



 遠くの空が赤く染まってきている。

 晩秋の透き通った空気が体を包み込む。

 黄金色の落ち葉が宙を舞っている。




「長い間、ご心配をお掛けしまして、申し訳ありませんでした。今日からまた頑張って走ります。よろしくお願いします」
 先輩部員のみなさんに向かって頭を下げた。

 拍手が聞こえてくる。とても大きな拍手。

 温かい言葉が次々と飛んでくる。

 どの先輩も、私に優しく接してくれる。



「それでは、二人一組になって、ストレッチをしてください」
 橘先輩の指示により、いつものように練習が始まった。

「私と一緒にストレッチをしよう」
 友紀が私に言ってきた。

「うん」
 私は友紀と一緒にストレッチを始めた。

「復帰祝いとして、大サービスしてあげる」
 友紀が私の背中を強く押した。

「痛い、痛いってば」

「大サービスって言ったじゃん」
 友紀が笑っている。

 美咲とまっちゃんも笑っている。

 橘先輩も他の先輩も笑っている。

 友紀のおかげで、ほんの少し、緊張がほぐれた。



「佐藤さんは、休み明けだから、無理しないでね」
 橘先輩が私に声を掛けてくれた。

「はい。自分のペースで走ります」

 私は、ひと月近く走っていない。
 だいぶ足がなまっている。
 肺活量も落ちている。

 それでも、今日は無理をする。



「今日も走って走って走りまくって! ランランラン!」
 橘先輩の掛け声により、部員のみんなが裏門から飛び出していった。



 右側は見ない。右側は見ない。左側を見る。左側を見る。

 そう何度も自分に言い聞かせながら、私も裏門から飛び出した。



 走り慣れた道なのに、思うように足が動かない。

 ちょっと走っただけで、息が上がってしまう。

 呼吸は乱れる一方。



 足の付け根が痛い。

 右膝も左膝も痛い。

 ふくらはぎにも痛みが走る。



 それでも、走り続ける。

 走り続けなければならない。

 絶対に歩かない。

 絶対に立ち止まらない。



 下り坂を下り終えたところで、前を走っている美咲が、私の方に振り向いた。
 
 真剣な表情で、こくんと頷いた。
 
 美咲は前を向き、走る速度を上げて、橘先輩の前に出た。

 全員のペースが一気に上がった。



 私は走るペースを落として、集団から離れた。

 人生最大の試練を乗り越えるために、余力を残しておく。



 もう辺りは薄暗い。

 薄暗いけど、あの時とは違う。
 
 今日は、晴れている。



 あと、三百メートル。

 あと、二百メートル。

 あと、百メートル。



 前だけを見つめて、一気に駆け上がる。

 今の自分のできる限りの力で、一気に駆け上がる。

 精一杯の全力疾走で、一気に駆け上がる。





 はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。



 風のように駆け抜けろ!



 はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。



 透き通った空気になれ!



 はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。はあはあ、はあはあ。



 もっと強くなれ! 自分に負けるな!


 
 はあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあははあはあはあ。




 上り坂の頂上で、私は両膝に手をついた。

 いくら空気を吸い込んでも、呼吸は全く落ち着かない。

 地面がどんどん濡れていく。

 水溜りができそうなくらい、次から次へと溢れ出してくる。





 私は…………自分との闘いに勝った。





 いつまでも泣いてるな。

 空を見上げて、笑顔になれ。





 私はゆっくりと歩いて、坂道を下った。



 コスモスが……まだ咲いている。

 赤色のコスモスだけが……咲いている。

 元気に咲いている。



 亮太……



 二輪のコスモスが……揺れている。

 風はほとんど吹いていないのに……揺れている。

 走っているかのように……揺れている。



 亮太、私はこれからも走り続けるよ。

 前を向いて走り続けるからね。
< 129 / 268 >

この作品をシェア

pagetop