泥棒じゃありません!
「ちょっと、芦澤ちゃん!」
全体朝礼前にコピーだけでも取ってしまおうと席を離れた時だった。悠さんが大声を張り上げながら、私のところに飛んできた。
「どうしたんですか?」
「わかったのよ、例の“ミスターX”の正体!」
「ミスターX……?」
悠さんがなんのことを話しているのかわからず、きょとんとしてしまう。
私の反応にもどかしさを感じたのか、彼女は苛立たしげに続けた。
「だからほら、総括マネージャーのことだってば!」
そう言えば、統括マネージャーがあまりにも正体不明だったために、前に誰かがそんな言い方をしていたのを耳にした気がする。
通常、異動してくる人間は転勤前に部署に挨拶に来るものだけれど、統括マネージャーだけはなぜか一度も姿を現さなかったのだ。
「私、さっきうちの課長が部長と話してたのを偶然聞いちゃったのよね」
悠さんはそう言ってから、辺りを見回した。大っぴらに言うのはどうかと思ったのか、私の耳元に口を寄せる。
「なんとあの蓮見裕貴だったのよ、芦澤ちゃんの天敵の」
私は悠さんと目を合わせてから「えっ」と声を出した。
「だから、真っ先に芦澤ちゃんに言わなければと思ってさ。でもまさか、彼がアメリカからこんなに早く戻ってくるとは思わなかったわ」
悠さんは壁側を向いて、さらにひそひそ声でそう言った。
蓮見さんは三年前、なかなか市場を拡大できないでいたアメリカ支社の商品開発の責任者に大抜擢された。
当時、二十九歳という年齢だった蓮見さんがそんな大役を任された理由は、彼がその一年前に『Cryst』という薄い板状のチョコ菓子を大ヒットさせたことにあった。