栞の恋
いくつかの書棚を物色して、ここに来てから、既に一時間が経とうとしていた。

ちょうど、歴史小説の書棚の前で、目の高さにあったハードカバーの小説を手に取ろうとした時、ふと、同じ列の、5冊ほど左にある本を取り出そうしている腕が、視界に入る。

あれ?この感じ、さっきも…。なぜそう思ったのか、すぐに思い立つ。

前ばかり見ていたから、男性だか女性だかわからなかったが、この生成りの白いシャツと、その腕に揺れるすごく透明度の高い水晶のブレスレットには見覚えがあった。

今日ここに来てから何度かこんな風に、同じブースで同じ書棚に手を伸ばすこのシャツと、本を読むために最適な程度の明るさに調節された照明の明かりで、瑠璃色に揺れる水晶が、視界の端に映り込み自然と印象に残っていたのだ。

何気なく、隣に立つその人(男性だった)を見て、思わず取り出した本を落としてしまう。

『あ…』

その瞬間、男性の方も、落ちた本に視線を向け、そのままこちらに視線をよこす。
ほんの一瞬。

時間にしたら0.1秒にも満たないかもしれない。

思いがけず目線が重なり、なぜか逸らせなくなってしまう。年齢は30代だろうか?こちらを見るその目には、“太い黒縁の眼鏡”がかかっていた。

声を発したくせに、その後何も言わない自分に、怪訝な顔で『何か?』と、訴えかけられているような気がして

『いえ、何でもないんです!』

栞は急いで落ちた本を拾うと、そのまま元の書棚には戻さず、その場を立ち去る。

とりあえず、かなり離れたブースの陰に、一旦身をひそめ、早まる心拍数を落ち着かせる。

よく考えてみたら、相手がまだ何も言っていないのに、返事をする必要は全く無かった。そう思いつくと、今更ながら、顔から火が出るほど恥ずかしい。

我ながらどうかしている。偶然にも、昼間話していた、高橋さんの妄想話通りの男性が現れ、瞬間、現実と妄想の境目がわからなくなるなんて。

“バカみたい、あれはあくまでも高橋さんの妄想よ”

先程から鳴りやまない心臓の音を鎮めるように、胸の前で持っていた本を抱きしめると、いつもの冷静さを取り戻すように、大きく深呼吸をしてみる。


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